ことのほか

夢だったのか、現実だったのか、
自分でそうしようとしたのか、誰かに助けられたのか、
天に昇ったのか、地に堕ちたのか・・・
分からないことばかり。

人の世には理解の及ばぬことばかり。
色恋は、義理人情や全ての道理や理屈から外れた「ことのほか」
というのだそうだ。
理(ことわり)の外(ほか)ということだろうか。

明け行く雲に、霞に紛れて消え失せるのは、「胡蝶の精」ばかりではない。

昨年から一年がかりでさらってきた義太夫「明烏六花曙(あけがらすゆきのあけぼの)」
がやがて完結する。
女郎屋の浦里と娘の緑を助け出した時次郎、三人で雪の中を逃げて行く。
 
   緑を背なに時次郎 いづくをさしてゆく空や
   早や東雲(しののめ)の明烏 飛ぶが如くに遠近(おちこち)や
   後(のち)の噂や残るらん

「早や東雲の明烏 飛ぶが如くに遠近や」
この言葉を語りたくて、一年やってきたのだ。
ようやく雪の中で折檻される身から三人して逃がれられる・・・
覚悟の駆け落ちなのだが、本当に逃げ切れるのか、どうか。

元唄の新内「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」では
 
   互いに目を閉じ一思い、ひらりと飛ぶかと見し夢は、
   覚めて跡なく、明烏、のちの噂や残るらん。

と終わる。この駆け落ちは心中行、それさえも一場の夢であったのだと・・・。

   死ぬる覚悟を極めし身の上、何をか厭(いと)わんサア一緒と、
   手を取組んで一足飛び、実(げ)に尤(もっと)もとうなづいて、
   互いに目を閉じ一思い、ひらりと飛ぶかと見し夢は・・・・・


夢であっても一思いに飛ぶ、というのは「ことのほか」・・なのか。



夜明け


能「胡蝶」 (抜粋)

      有難やこの妙典の功力にひかれ。有情非情も隔てなく。
      仏果に至る花の色。深き恨みをはらしつつ。
      梅花に戯れ匂いにまじわる。胡蝶の精魂現れたり

有明の月も照りそふ花の上に。
さもうつくしき胡蝶の姿の。
現れ給うはありつる人か

      人とはいかで夕暮れに。かはす言葉の花の色
      隔てぬ梅に飛びかけりて。胡蝶にも。誘われなまし。
      心ありて

八重山吹も隔てぬ梅の。
花にとびかう胡蝶の舞の袂も匂う。景色かな


四季折々の花盛り。四季折々の花盛り。
梢に心をかけまくも。かしこき宮の所から。
しめの内野も程近く。野花胡蝶春風を領じ。
花前に蝶舞う紛々たる。
雪をめぐらす舞の袖返す返すも。面白や

      
       春夏秋の花もつきて


春夏秋の花もつきて。霜を帯びたる白菊の。
花折り残す。枝を廻り。めぐり廻るや小車の。
法に引かれて仏果に至る胡蝶も歌舞の菩薩の舞の。
姿を残すや春の夜の。明け行く雲に羽うちかはし。
明け行く雲に羽うちかはして。霞に紛れて。
失せにけり


夜明け2

深き恨み

能「胡蝶」の胡蝶の精のように、
自分が深く心を寄せる対象(梅)と縁を結べないというそれだけで、
そのことに「深き恨み」を抱いて成仏できない、などというのは、
考えてみれば凄く恐ろしい話で、見ようによっては、
愛する対象がこちらを振り向いてくれない、というだけで、
愛がネジ曲がりストーカー化した女のようではないか。


ユダがイエスを裏切った。
イエスは嫌な奴だから捕まえてくれと訴えながら、
だってこんなに愛して尽くしている僕を評価してくれないんだもん、
と告白するユダの心情を口述筆記で描いた、という
太宰治の「駆込み訴え」に関する記事をあるブログで読んで、
「胡蝶」の可憐さとは不釣り合いな「深き恨み」の正体が少し見えた気がした。


人の心に巣くう
「ナルシスト的な誇大な自信過剰や、一方的な恋愛感情や被害者意識」
などと言うもの、なのだろうか。


能の「胡蝶」自体は軽く楽しめる作品という位置付けで、
決して重いテーマを扱ったものではないはずだ。
どうして読経によって晴らされなければいけないほどの「深き恨み」があるのだろう、
と不思議に思っていたけれど、
そんな風に考えると、僧に懇願する真剣さも、成仏できて喜ぶ報謝の舞いも、
また意味深いものに思えてくる。


梅に縁を結ぶ

     能 「胡蝶」
大和の国の吉野の山奥に住む僧が、早春の都をたずね、一条大宮に着きました。
古い宮に見事に咲いた梅の木をみつけ、眺めていると、女が語りかけてきます。
女は胡蝶の精でした。
胡蝶は春夏秋とすべての花に心を染めて梢に遊ぶ身ではあるけれど、
早春に咲く梅にだけは縁がないので、それを悲しみ怨んで成仏する事ができない、
どうか法華経の功徳で極楽往生させて下さい、と僧にたのむのです。
その夜僧は梅花の下で回向の読経をして寝ると、夢に胡蝶の精が現れ、
胡蝶の精は、梅の花に縁を結び得たことを喜び、報謝の舞いを舞い、
夜明けに霞にまぎれて消え失せてしまいました。

可憐な胡蝶の精が梅にだけは縁がないという「深き恨み」を
僧の読経で晴らして成仏する、という一途さが、
楚々とした梅の花のイメージと相まって、
なんともいじらしい話し、である。



先頃、父の三回忌で遠州の寺に出掛けた。
他に何もない田んぼの真ん中に小さい山を背に本堂が建つ。
本堂の前には紅梅と白梅の細い木があるのだけれど、
今年は白梅はまだつぼみのままで、紅梅のみが咲いていた。
昨年同じ2月の母の七回忌に出掛けた折は、確か、白も紅も咲いていたように思う。

4年後に父の七回忌、
5年後に母の十三回忌、
そして10年後に父の十三回忌。

10年後ですかあ・・、とつい口をついて言葉がもれる。

10年なんて、すぐですよ。和尚様がそうおっしゃる。

10年後に和尚様と和尚様より10才年上の奥様と、
和尚様と同い年の私と、そして妹が皆顔を揃えられるのか。
10年後、ちょっと想像できないなあ・・。


能は「古い」のか?

もう20年近く前になるだろうか、初めて能楽堂に行って能を見たのは、
子どもに能とはどういうものかを体験させたかったからで、
実は私にはどうにも退屈で眠くて、ほとんど寝ていたと思う。

今回、自分が興味津々で見に行ってみると、実に面白く、
飽きる事なく楽しめた。
能と狂言との関わりもようやく理解納得ができたし、
何より、能が物凄く前衛的に感じられ、びっくりした。

これがおよそ650年前の室町時代に、観阿弥と世阿弥の父子によって大成された、
ほぼそのままのかたちでで演じられている、ということは信じ難いことだ。

能楽師たちが頑に身体から身体へ綿々と受け継いできたものは、
無駄のない抽象化された表現で、現代的を通り越して、
未来的にすら感じられたのだ。


以前BS朝日で能楽師の梅若弦祥がギリシャの世界最古の劇場
「エピダウロス古代円形劇場(世界遺産)」で能を舞うというのを見た。
演目はギリシャ神話を題材にした叙事詩「オデュッセイア」より
第11歌「ネキア」をアレンジした新作能「冥府行」。
ギリシャを代表する舞台演出家マルマリノスと、梅若たちが、
物語のギリシャ的解釈と能の本質とのせめぎ合いでお互い真剣に戦いながら、
素晴らしい舞台を作り上げる様をじっくり見せていて、見応えがあった。

生者が死者の国をめぐる話しがネキア、
それを生者以外の者を主人公として物語を綴る能の形を使って演じる、
というのがとても面白い。

過去と現在と未来という時間軸さえも容易に飛び越える能が、
宇宙的にすら感じられたのだ。



無駄を削ぎ落とした能という技法は抽象の極みであり、
それは時代をこえた真理を表現しているものだ、としたら、
新しいとか、古い、とかいうことは、関係ないのではないか、
と、思う。


伝統芸能というもの

伝統芸能というものは、型を継承していくもの、というようにとらえられる。
そこにはまるで創造性もなく、先人の型を丸ごと寸分の違いもなく写し取ることが、
最大の目的であるかのように言われる。

指導して下さる能楽師は、
ある時宇崎竜童に(友人がミュージシャンでよく出入りしていたそうだ)
「お前たちは、ずっと同じことをして右へ回るの左へ回るのとそんなことばかりして、
 それが何になるんだ?」
と言われたのだそうだ。
「俺たちはアドリブをしたり、新しい音楽を作って自分を表現しているんだ。」
と言われて、自分は確かに毎日同じように右へ回ったり左へ回ったりしているけれど、
それで自分を表現できていないわけではない、と思ったのだそうだ。


能楽師が学生の頃、仕舞(謡に合わせて舞う舞)の手で、
右へ回っても左へ回ってもいい、という手があって、
なんだそんな程度の(いいかげんな)決まり事なんだ、と言ったら、
師である伯父に「なにをっ!」とにらまれたのだそうだ。

先日ある所で「羽衣」のレクチャーをした折、質問コーナーで、
「テレビで見た羽衣の衣装は赤だったけれど今回は白ですね。
 以外と(いいかげんで)厳格な決まりはないのですね。」
と言われて、自分も「なにをっ!」と思ったのだそうだ。
そこで、学生時代の自分も、目の前の人と同じように、
能の理解がその程度でしかなかったのだと、思い至ったのだそうだ。

厳格な決まり事は根底にあるのであって、それを崩す事はない。
型の継承、技術技能の継承も厳格なもので、自らそれを崩す事はない。
だからといって、そこにいるのは生身の人間であるから、
自己が投影されることは必定で、何の心もないわけではない。

常に新しいことばかりが芸術ではない。


伝統芸能に携わる人は、常に歴史と時代の中に自分を置いているのだろう。
自分が変えなくても、時代が文化を変える。
どんなに厳格に継承しても、変わっていくものはある。
歴史と文化の中で芸術を生み出していく、そういう大きな物差しの中で
生きているのだな、と思う。



文化を受け継ぐ

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区の芸術文化振興財団の主催で3ヶ月間能の指導を受け3月に舞台で謡を披露する。
私のように何でも体験してみたい者にとってはとてもありがたい企画だ。
同時に合唱の企画もありそちらはフォーレのレクイエムを歌う。
演奏会は3部からなり、1部が能「胡蝶」、2部がレクイエム、
3部は能楽師とオペラ歌手によるコラボレーション「隅田川」になる。

能の謡(うたい)は謡本(うたいぼん)にゴマ譜のように小さい棒がついているだけで、
いわゆる楽譜はない。
はじめはとても戸惑う。
「ぜんぜんわかんなーい」と言わないで、とにかく真似して言って下さい、と。
旋律と呼べるようなものが音階と呼べるようなものに並んでいることは並んでいるので、
それを音で現すならば大体この辺、という表示はできる。
ピアノで弾こうとすればできなくはない。
学校で子どもたちに体験させる時は音楽の先生にそういう表示をしてもいい、
と指導するのだそうだ。
私たちは西洋音楽の記譜に慣れているから、そういう楽譜的なものがあると、
理解が早いのだ。
というか、そうでないと理解ができないのだ。

それでなんとか、旋律的なものを理解した気になる。

指導して下さる能楽師の舞台を見た。
ああ、これは全く別物だ、と愕然とする。

謡は唄ではないのだ。
声明に近いのかもしれない。


これは個人としては何十年、伝統としては何百年、文化としては何千年の重みだな、
と思う。


小さい子どもに指導する時、
「わかったか?」と聞くと「わかった」と答える、
「できるか?」と聞くと「できる」と答える、
決して「できない」とは言わせないのだそうだ。(笑)

そうだ。文化は丸ごと受け取って、丸ごと受け継ぐものなのだ。



問題はどこにあるのだ?

人前で「ち◯ぽ」なんて連呼して、なんて品がないんだ!
私だってそう思う。
ましてや人様の寝室とパンツの中なんか、どうだっていいのだ。

寝室とパンツの中の事は秘すれば花、
暗闇でドッキリ、暗黙の了解、黙して語らず。

芝居でも、具体的事象に突っ込んだ色っぽい場面になると、
場内の空気が緊張して、演ずる方も見ている方も、どうも落ち着かない。
で、演者が妙に緊張してトチったりする。台無しである。

文学講座の講師をしているあるエンターテイメント作家は、
自分の母親が生きているうちは濡れ場は書かない、と決めているのだそうだ。


でもだからって、寝室とパンツの中以外の全てを人前にさらすのは、
同じように恥ずかしいとは思わないのか?

私たちの人生も文化も元を正せば全てそこから始まっている。
本当はお下劣でも何でもないのに、闇に追いやって見ないようにしているのは、
何故なんだろう、とは思わないのか?

性の問題には必ず、根の深い心の問題が潜んでいる、とは思わないのか?


性から自由にはなれないのに、その問題を指摘されると、
過剰に反応するのはおかしくないか?

満たされていないのは、カラダなのか、ココロなのか。
欲しているのは、カラダなのか、ココロなのか。
傷ついているのは、カラダなのか、ココロなのか。

満たされているのは、カラダなのか、ココロなのか。


書くって何?

「蛇にピアス」を書いた金原ひとみは父の金原瑞人のゼミに通って文学修行をしたのだが、
金原瑞人はかねてから学生に、小説を書くにあたって、
「親が恥ずかしくて外を歩けなくなるようなものを書け」と教えていたのだそうだ。

その教え通り、「蛇にピアス」はなかなか衝撃的な小説で、芥川賞も取り、
おかげで親も有名になったのだから、これで良かったってことなのだろう。


前回の記事でも書いたが、井上光晴の長女荒野が
「やはり作家という、何かものを創る人間はやはりどこか変なんですよ」と言った。
それは小説家は、家族が外を歩けなくなるような題材を求めている、作っている、
ということなんだろう。
そういう意味では、何とも因果な商売だ。
そんな風に人と違う特異点を探さなくても、
人それぞれにとっても変なのに、と私は思うが、どうなんだろう。

予約していた「夫のち◯ぽがはいらない」こだま著、が届いた。
ものの数時間で読了。
文学としては、どーなんだろー?だけれど、
記録としてはなかなかのものだ。
ち◯ぽが入らないばかりか、早々に閉経して、
自己免疫疾患に陥って、子どもを生まないことで実母とのいさかいがあって、
教師としての悩みあり、夫の鬱の悩み、夫の風俗通いの悩み、
もう、お悩みのデパートやあ!である。(宝石箱やあ!はどうなの?ははは)

これこそ、書いたら外を歩けないでしょう。
夫は風俗通いは妻に知られていないと思っているし、
こんなこと小説にされたとは知らないだろうし、
それでもこれだけ話題になったら、自分のことだと気が付くわねえ。
どうなるんだろう。

書評に、「素晴らしい純愛ですね!」とかあったけれど、
風俗に支えられる純愛って何?
まあ、素人さん泣かせるよりましだけれど。

書評に「最後のページの最後の2行がいい」とあったから期待していたけれど、
それは、どうってことなかった。


本当、書くって何?

作家を父に持つということ

井上荒野×齋藤由香×井上都「父と私ーー井上光晴、北杜夫、井上ひさし」
というトークイベントに行ってきた。
三人の女性著述家それぞれには特に興味はないけれど、
作家を父に持つ著述家、というくくりそのものに惹かれて出かけた。


それぞれが作家を父にもった「ひどい」けれども「楽しい」特異な経験を語った。

トークの中でも引き合いに出されていたが、
阿川久之氏を父に持つ阿川佐和子氏がよくテレビで語る
「作家という特異な職業の変な人を父にもつ変な生活」と同じであった。

ひどい体験ではあったけれど、それはまた楽しい体験でもあり、
そういう父を誇りに思い、その関係を書くことで、
体験した時にはわからなかったことが腑に落ちていく。

井上都氏は父にまつわるエッセイを書いたことで、母親から
「あんたこれじゃ、思い出屋になっちゃうじゃないの」と非難されたそうだが、
書くことで、父との未消化の関係性を整理できるから、書くのはいいことなんだ、
と他の二人に励まされていた。

「『死の棘』の家で起こっていたこと」というトークイベントで
島尾敏雄、ミホ夫妻の長男島尾伸三氏が語った苦悩と変わらない。
ただ、伸三氏の「認めないけれど引き受けよう」という関わり方に比べて、
今回の三人は娘であるということからか、
より感情としては愛情をもって認めているように思った。


荒野氏は「やはり作家という、何かものを創る人間はやはりどこか変なんですよ」
と変な人間に付き合う変な家族であったことを特に強調していたけれど、
そうだろうか。
世の中の人は(自分では書かないだけで)ことごとく変である、と思う私は、
強烈に違和感を感じた。




お三方が語った父との特異な体験。

井上光晴氏の長女荒野氏は、
小説に書く参考にしたいからと、飼っているヤドカリを焼いていいかと聞かれたり、
父には外に女性がいたけれど、自分の母親はそれを知りながら平気でいた、
とか。

北杜夫氏の長女齋藤由香氏は、
母親の影響で「ごきげんよう」と言い合うハイソな家庭が、
父親が躁病になって株で財産をなくして破産、父と母の大げんかでひっくり返った、
とか。

井上ひさし氏の長女都氏はこまつ座を手伝うようになって父親との関係が悪くなり、
亡くなる9ヶ月前程からは会えなくなり、亡くなった後、
手帳に、自分のことを「人間のクズ」と書かれていた、
とか。


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