音楽は誰のもの?語るのは誰のため?

音楽は演奏する人のものだ。

人前で裸になって、もはや言い訳も効かず、
全身、自覚のない緊張で縛られ、
自分自身が out of control に陥り、
セーフとアウトの狭間を浮いたり沈んだりしながら、
息も絶え絶えに向こう岸までなんとか泳ぎきる。
あーあーあー、と絶望と悔恨とにさいなまされながらあたまをかきむしり、
もう二度とやるもんかと思いながら、
その痛みを忘れると、えへへ、と言いながら次の演目を考えている。

これは絶対イケルと思っている時は、
どうしかけるか、どこまでヤルか、いややりすぎちゃいかん、
今のはどうだったろう、こんなもんかなあ、ここを聴いてもらえたかなあ、
ウフフフフ、と気味の悪い笑いをかみ殺す。

なんて馬鹿みたいなことなんだろう、と思いながら、
どんな下手でも聞くよりやる方が絶対に面白い。

語るのは(いまのところ)自分のため。


義太夫三味線 ドラマ「ちかえもん」


out of control の大汗をかいたのは先日演奏会で、
右の人みたいに三味線を抱えていた時。

「うひひ」と快感に酔いしれていたのは、次の日「まっかべ村」の村文楽に行って、
左の人みたいに素浄瑠璃を語っていた時。


鷺坂坂内  鷺坂坂内2
               (画像はお借りしました)

私は『仮名手本忠臣蔵』の「鷺坂伴内(さぎさかばんない)」役。
歌舞伎の役者だと「戯れ隈(ざれぐま)」という隈取りをします。


鷺坂坂内3

文楽だとこんな人形が演じます。


こういう役、大好き。

うひひ。

日本人の感性

能の地謡(じうたい)は複数人で同じことを謡う。
いつ扇を持つか、どこまで音を伸ばすか、いつ扇を置くか、
いつ立ち上がるか、などの「きっかけは」大体この辺、という大枠が決められているが、
この音の前とか、後とか、何拍とか、きっちり決まっているわけではない。

それが複数人でみっともなくバラバラしないように合わせるためには、
全員の「こころづもり」が合わなければならない。
あわてない、早すぎない、遅すぎない、適度な場所で適度な速さを、
一人一人が計算しなければいけない。

これは実は結構高度な事だ。

これは邦楽に共通する特徴で、音程や拍も全くないわけではないが、
きっちりあるわけでもない。
その時々、人々の総意で決まる、とも言える。

これが洋楽との決定的な違いだ。
洋楽の例えば拍感は、はじめに時計や物差しなどのスケールありき、だ。
だから「きっかけ」を登場人物の総意で決めることができず、指揮者が必要になる。

一概にどちらがいいとも悪いとも言えないけれど、
洋楽の決まりが「不自由」に感じられることもあり、
邦楽の自由さ(音程や拍の不確かさ)が気持ち悪く感じられる事もある。


能楽師の先生がオペラ歌手とコラボレーションの新作を創っていて、
オペラ歌手や演奏家たちの受けてきた教育の融通の利かなさに
いらだつことがあるのだそうだ。


息子が小さい時、バイオリンを弾く時、
ゆったりした所はとてつもなくゆっくり弾き、
速い所はとてつもなく速く弾いて、いつも先生に注意された。
一小節の長さは指定された速さで決まっているのだから、勝手に変えてはいけない。
曲想で速く感じられるところも遅く感じられるところも、一小節の長さは同じだ。
決まったスケールの約束の中で速い遅いを表現しなければいけない、ということだ。

息子はそれにすごく反発して、自分の感じるように弾きたいと言った。
それは楽譜の約束事に反する事だし、実際遅すぎたり速すぎたりして聴きづらい。
それを理解させようと、メトロノームで拍を刻んで弾かせたものだ。
結局、息子はわかっていて反発していたのだけれど、思春期が過ぎて、
少し落ち着くまではそのことに随分こだわった。


当時は親としてどうしたものか、と思ったけれど、
息子の言うこともあながちわからないわけではない。
息子は極端だったのかもしれないけれど、
スケールありき、というのは実は便利だけれど不自由なのだ。

日本人の感性は高度だなあ、と思う。

フォーレ

フォーレのレクイエムは、旋律、調性の移ろいや構成がとても柔らかくお洒落である。


ソプラノとテノールが応答しあうようにからまったり、
ソリストと合唱が相互に歌いあったり、
近代的な調性感の中に古典的な教会音楽が感じられたり。


ソプラノ、アルト、テノール1,2、バス1,2、の6声がからまりあって、
複雑な和声を奏でるのは、歌う方は大変だけれど、きっと天国的な音になるのだろう。

三つ編みを編むように、いつの間にか入ってきた声部が、
いつの間にか違う声部に変わり、またいつの間にか消えている。


ベートーベンの第九には、神という存在への強固な信頼と喜び、
決然とした歌う意志というものを感じたけれど、
フォーレには何か、神の慈悲への深い共感を感じる。

ドイツとフランスのお国柄の違いと、作曲者の人柄の違いも勿論あるのだろう。


ここまで違うと、同じ洋楽でも発声が随分と違ってくる。
フォーレでは声を限りに叫ぶ必要はない。
自分の声が人の声より大きい必要もない。

他者の声をよく聞く耳で、和声の中に今ある自分を感じる事ができれば、
それでよし。

思い出す事

習い事の習得は頭の柔らかい若いうちがいいに決まっている。
とにかく見本を丸ごと飲み込んで真似ることに抵抗がなく、
素直に吸収できるうちが望ましい。
だからそう言う家系の子どもは数え年6才の6月6日から諸々のお稽古を始める。
本当はもっと早いうちから始めている。
お腹の中にいるうちから聞き慣れたリズムと音は身体の細胞に刻み込まれているだろう。

大人になって始めるお稽古は、頭は固くても理屈を理解できる分、
理解さえすれば堅実に上達する、はず、である。
が、実際には運動神経も頭脳の神経も中古なわけで、
思うようには上達しない。

せめてハタチ前に始めていればかなりなんとかなる・・のだけれど。
私もせめてあと20年早く始めていたらよかったなあ、と思うけれど、
子育てが一段落つくまでは「和」の文化に何の興味もなかったわけで、
今更どうにも仕方がないじゃあないの、
というところで、思い出した。

ジュウハチの頃、大学の演劇研究会でウダウダしていた。
何となく、ダンスとか歌の他に何か「和」のお稽古の素養が必要な気がして、
学部の男友だちのお婆様が「謡(うたい)」を教えているというのに飛びついた。
能も謡も何だかよくわからず、指定された「謡本」だけ買っておいた。
指定された初稽古の日、多分前日遊びすぎたか何かで、約束をすっぽかしてしまった。
「もう、教えないってさ」男友だちはあまり怒るふうでもなかったし、
その後私はその子も軽く振って、すっかりそんなことは忘れていた。

今回、謡「胡蝶」をやることになって、思い出しました。
お婆様に指定された謡本は「胡蝶」でした。
あーーーー、ジュウハチの私のバカ!バカ!バカ!



またしても、一人反省会

ああ、疲れちゃった。
結局、平静なんて保てなかった、ってことで・・。

人前で楽器を弾くのは苦手です。
なんて言っているのにまたしてもほんの気の迷い、というか、
乗せられてというか、勝手に乗ってというか、
義太夫の会で義太夫三味線を弾いて、撃沈した。

く く く、悔しい。

人前で唄ったり語ったりするより、
楽器を奏でる方が楽器がある分気が楽だ(素の自分一人ではない)という人と、
楽器は弾けるか弾けないかはっきりわかってしまうから(上手いか下手か丸わかり)
唄ったり語ったりする方がまし、という人といるけれど、
大概の人は唄う方が気楽ではないかな・・。

昔は芸者さんでも、義太夫三味線を弾ける人がいて、
お座敷で旦那衆が「ちょっと『壺阪』習ったんだけど弾いてくれよ」とか言って、
師匠の所で習いたての義太夫をひとくさり語ってみたり、ってことが当たり前にあったのですって。

今でも、芸者さんにちょっと三味線をつまびかせて、小唄を唄ったりする旦那もいて、
三味線が弾けるっていうのは便利な特殊技能なんですけれどね・・。
なかなか習得は難しいです。録音を聴くだけでは弾けるようにならないからね・・。

唄や語りは「味」ですむところが、楽器は「味」の前にクリアしなければいけないところが
大きいから・・。

琴や琵琶や地歌の弾き語りは難しいだろうと思います。
長唄や義太夫のお手本は先生が弾き語りで録音して下さるけれど、
これはほんとにプロだなー、と思います。


さて、前回の邦楽の声の出し方について。

洋楽では歌う前に体操したり身体を動かしたり、息をガーガーぶーぶー出したり、
何十分も時間をかけて発声練習なるものをするけれど、
邦楽にはそれはない。

能楽師の先生に言わせると、
「とにかく、ムキになって大声をだす」
これに尽きるのだそうです。
やっていくうちに、平板に声を出すだけでなく、
詰めるところ、引っ張るところ、深くするところ、浮かせるところ、
などの違いがわかってくるから、先生をとにかく真似る。
違う、と言われたら、大きく振ってみる。
右が違うなら左、左が違うなら右。
そうやって正解を見つけていくのですって。
能の落としどころはわりと厳格に決められているように思う。

長唄や義太夫はその振り幅や落としどころを自分でいかようにも作れるところが
面白い、と言えるかな・・。


ああ、三味線リベンジしたいな、上手くなりたいな・・。


平べったい声

アカデミー賞の最優秀作品賞の誤発表はおふざけかと思ったら、
本当に間違いだった。(笑)
誘われたので「LA LA LAND.」を見てきた。

「ささやきのような、ため息のような」歌唱、これは流行なのだろうか。
日常会話が朗々としたミュージカルというのも違和感があるけれど、
だからと言って、平原綾香のような、吐息の中に声が埋没している歌唱も大変聞きづらい。
エマ・ストーンの歌唱はウィスパーボイスというより息が多くて、
ざらついた鼻歌に聞こえた。(これは個人の感想です、笑)

身に付いた歌唱というのは、なかなか変えられないものらしい。

今、能の謡とフォーレのレクイエムの合唱を同時進行で練習しているけれど、
合唱の指導をして下さるオペラ歌手が謡を歌って、
なんというか、
こけた。
「いや、指導しているのは私ですから、彼がここまでにしかならなかったのは、
 私が悪い、ということで・・・」
能楽師がそう言う、ほどに、「え、オペラじゃん」

発声が違う。洋楽は軟口蓋をあげて、マーライオンの様な息にのせる。
邦楽はもう少し下の深い所から出た地声だ。
声を息に乗せて解放するというよりも、強くためてコントロールする。

そんな話しを友だちにしたら、
ボサノバ(ブラジル、ウィスパーボイス)の小野リサが
ボサノバのルーツのファド(ポルトガル、地声)を習いにいく、
というテレビ番組のことを話してくれた。
結局、小野リサの歌い方は感情をあらわに地声で力強く歌うファドにはならなかったのだと。


先日の合唱の稽古で、オペラ歌手が私に言った。
「ガーっと、こう、軟口蓋をあげるといいよ。」
「まあ声は出てるよ。平べったい声だけどね。」

自覚はあるのだ。
洋楽と邦楽両方やってみてわかった。私は邦楽の声の方が出しやすいのだ。
私の声は「平べったい」のだ。


そう、それで、「平たい顔族」ピクシブ百科事典という言葉を思い出した。
でも、必ずしも骨格がローマ人だから洋楽の声が出しやすいとか、
平たい顔族だから洋楽の声が出しにくい、ということではないようだ。
鼻腔に抜ける声か抜けない声か、ということらしい。

全くの平たい顔なのに邦楽の声にならない長唄も、それはそれでおかしい。

春よこい

おお撮れた。
スカイツリー
春の風が吹き荒れる日、スカイツリーの根元でスマホをめくら撃ちしたら撮れた。
春一番、二番、三番、も吹いたという。春本番はまだか。



上野公園さくら

上野公園の桜は2月だというのに満開の木もあり、4月はどうなることやら。


ことのほか

夢だったのか、現実だったのか、
自分でそうしようとしたのか、誰かに助けられたのか、
天に昇ったのか、地に堕ちたのか・・・
分からないことばかり。

人の世には理解の及ばぬことばかり。
色恋は、義理人情や全ての道理や理屈から外れた「ことのほか」
というのだそうだ。
理(ことわり)の外(ほか)ということだろうか。

明け行く雲に、霞に紛れて消え失せるのは、「胡蝶の精」ばかりではない。

昨年から一年がかりでさらってきた義太夫「明烏六花曙(あけがらすゆきのあけぼの)」
がやがて完結する。
女郎屋の浦里と娘の緑を助け出した時次郎、三人で雪の中を逃げて行く。
 
   緑を背なに時次郎 いづくをさしてゆく空や
   早や東雲(しののめ)の明烏 飛ぶが如くに遠近(おちこち)や
   後(のち)の噂や残るらん

「早や東雲の明烏 飛ぶが如くに遠近や」
この言葉を語りたくて、一年やってきたのだ。
ようやく雪の中で折檻される身から三人して逃がれられる・・・
覚悟の駆け落ちなのだが、本当に逃げ切れるのか、どうか。

元唄の新内「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」では
 
   互いに目を閉じ一思い、ひらりと飛ぶかと見し夢は、
   覚めて跡なく、明烏、のちの噂や残るらん。

と終わる。この駆け落ちは心中行、それさえも一場の夢であったのだと・・・。

   死ぬる覚悟を極めし身の上、何をか厭(いと)わんサア一緒と、
   手を取組んで一足飛び、実(げ)に尤(もっと)もとうなづいて、
   互いに目を閉じ一思い、ひらりと飛ぶかと見し夢は・・・・・


夢であっても一思いに飛ぶ、というのは「ことのほか」・・なのか。



夜明け


能「胡蝶」 (抜粋)

      有難やこの妙典の功力にひかれ。有情非情も隔てなく。
      仏果に至る花の色。深き恨みをはらしつつ。
      梅花に戯れ匂いにまじわる。胡蝶の精魂現れたり

有明の月も照りそふ花の上に。
さもうつくしき胡蝶の姿の。
現れ給うはありつる人か

      人とはいかで夕暮れに。かはす言葉の花の色
      隔てぬ梅に飛びかけりて。胡蝶にも。誘われなまし。
      心ありて

八重山吹も隔てぬ梅の。
花にとびかう胡蝶の舞の袂も匂う。景色かな


四季折々の花盛り。四季折々の花盛り。
梢に心をかけまくも。かしこき宮の所から。
しめの内野も程近く。野花胡蝶春風を領じ。
花前に蝶舞う紛々たる。
雪をめぐらす舞の袖返す返すも。面白や

      
       春夏秋の花もつきて


春夏秋の花もつきて。霜を帯びたる白菊の。
花折り残す。枝を廻り。めぐり廻るや小車の。
法に引かれて仏果に至る胡蝶も歌舞の菩薩の舞の。
姿を残すや春の夜の。明け行く雲に羽うちかはし。
明け行く雲に羽うちかはして。霞に紛れて。
失せにけり


夜明け2

深き恨み

能「胡蝶」の胡蝶の精のように、
自分が深く心を寄せる対象(梅)と縁を結べないというそれだけで、
そのことに「深き恨み」を抱いて成仏できない、などというのは、
考えてみれば凄く恐ろしい話で、見ようによっては、
愛する対象がこちらを振り向いてくれない、というだけで、
愛がネジ曲がりストーカー化した女のようではないか。


ユダがイエスを裏切った。
イエスは嫌な奴だから捕まえてくれと訴えながら、
だってこんなに愛して尽くしている僕を評価してくれないんだもん、
と告白するユダの心情を口述筆記で描いた、という
太宰治の「駆込み訴え」に関する記事をあるブログで読んで、
「胡蝶」の可憐さとは不釣り合いな「深き恨み」の正体が少し見えた気がした。


人の心に巣くう
「ナルシスト的な誇大な自信過剰や、一方的な恋愛感情や被害者意識」
などと言うもの、なのだろうか。


能の「胡蝶」自体は軽く楽しめる作品という位置付けで、
決して重いテーマを扱ったものではないはずだ。
どうして読経によって晴らされなければいけないほどの「深き恨み」があるのだろう、
と不思議に思っていたけれど、
そんな風に考えると、僧に懇願する真剣さも、成仏できて喜ぶ報謝の舞いも、
また意味深いものに思えてくる。


Template Designed by DW99