絵のこと

前記事で使ったミュシャの絵は国立新美術館で6月5日まで展示されている
ミュシャ展に出品されている絵です。
撮影可能な作品があり、iPhoneで撮影しました。


同時期開催(5月22日まで)の草間彌生展でも撮影可能作品があり、
前々記事の草間彌生の絵もiPhoneで撮りました。

草間彌生2

草間彌生はオノヨーコと同じようにアメリカでハプニングをしていた暗い人、
だと認識していましたが、
いつの間にか樹木希林のような顔のポップな有名人になってしまいました。
何十年か前、本の編集をしていた友人が、
「今、草間彌生の本つくってるのー。変な人でさー。ヘラヘラヘラ。」
と頭大丈夫か?と思うような顔で笑っていたので、
頭が相当いっちゃってる人だと思っていました。
ポップになってわかりやすくなって、人に受け入れられやすくなって、
良かった良かった。
ジミー大西の絵みたいで、そういう人(突き抜けた人)でないと描けない絵だと思いました。
以前ジミーちゃんがテレビで
「百貨店の人が言うように描いていると、お金がたくさんもらえる」
と言っていたので笑っちゃいました。


さて、ミュシャ。
「ミュシャ」というのは「Mucha」のフランス風の読み方で、
彼の祖国チェコの読み方では「ムハ」というのだそうです。
ミュシャはパリで名女優サラ・ベルナールのポスターを描いて大成功を収め、
アールヌーボーの旗手となります。
1900年の万博でボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾を手がけ、
スラブの人々の生活を目の当たりにし、
またアメリカ滞在時、チェコの作曲家スメタナの「我が祖国」を聞き、
それらが刺激となってパリを離れ、祖国チェコに戻り、
壮大な「スラブ叙事詩」という作品群の制作をはじめ、
完成には20年の歳月を費やします。

ミュシャ3

全体にモヤのかかったような色彩が微妙で美しい。

モデルにも近所の人を巻き込んで、
パリ時代に描いた面長の女性像とはうってかわって、丸顔で健康的な
スラブ的な顔の女性が描かれます。


ミュシャ


この絵は娘のヤロスラヴァがモデルなのだそうです。
日本人に親しみやすい骨格で好きです。

会場で上映していた映像で、本人は
パリで金持ちの家に飾るような絵を描いて貴重な時間を無駄にしてしまった、
と言っていた、とのことでしたが、
パリでの装飾的なポスターも本当に本当に魅力的で、
決して時間の無駄ではない!と思いました。
ポスターの細密な植物や女性の髪の表現は
彼のスラブ的な出自からきているのかな、とも思いました。


まあ、そういう事もあるさ 3

っていうか、
危うく見える息子の生活も、
彼自身が誇りをもって自ら選択して生きているのだ、
という主張を聞けて、そういう息子をこちらも誇りに思った。


いつまでも子ども扱いで子離れができないでいたのは、
こちらだったのだと、
遠くへ行ってしまった息子はSOSを出されるまで、
ただ見守るしかないのだと、

当たり前かもしれないけれど、
そういうことを、頭ではなく身体でわかるのは、
なかなか難しい。


息子に悪かったなあ、と思う。



ミュシャ2
(ミュシャ)

まあ、そういうこともあるさ 2

自分が子どもだった頃は親の価値観を押し付けられたり、
自分の世界観、価値観を尊重されないことに憤りを感じて
深く心をさらけだしたり交わったりすることをやめてしまった。

そういうことで傷ついたり、辛い思いをしたりした。

なのに、結局自分も親になってみると、
良かれと思って余計な事をして、子どもを傷つけているのだと、
息子からのメールで気が付く。


息子が傷つくということが一番辛い。

親って過剰だなあ。
過剰で前のめりで、しちめんどくさいなあ。



自分だって親に素直に甘える事ができずに勝手に傷ついたり、
勝手に憤慨したり、勝手に嫌ったりしてきたのに、
親になったら同じ「親」になっているよ。


親子って難しいなあ。

いい親よりも大切なこと


親の心子知らず、子の心親知らず。




まあ、そういうこともあるさ 1

人は誰かの世話を焼いているのが幸せなんだよね。

誰かの役にたつとか、そういうことじゃなくて、
人にでも動物にでも、誰かに何かするという行為自体が幸せなんだよね。

でも、それを受ける方はうっとうしい。


草間彌生
(草間彌生)

たいしたことではないのだけれど、
息子に、「いらないというモノ」を買ってあげようとして、終いにはキレられた。
いや、ただ勝手に買ってあげたかっただけなんだけどね、
そういうの、息子からしたら迷惑なんだね。

子どもにもいろんなのがいて、
調子良くホイホイ買ってもらうことに抵抗ないヤツもいるけれど、
まあ、色々。



人にでも動物にでも何かをしてあげたくなるのは、
それが本能的に喜びだから、なんだと思う。


でもそれを拒絶されると悲しいなあ。
ああ、鬱陶しいんだな、放っといてくれって思うんだな、
というのはわかるけどね・・。

ささくれていた心は柔らかい色とりどりの布地に触れて
なんだか癒された。

不思議だ。

ミュシャ
(ミュシャ)


覚え書き2

前記事の映画を見た日、もう一本見たのが
「T2 Trainspotting」
T2トレインスポッティング
(↑ここをクリックしてホームページに行くと予告編も見られる)


1996年に公開された、スコットランドの4人のジャンキーの明るく悲惨な青春映画
の20年後の続編だ。
「Face your past. Choose your future.」
親は飲んだくれ、自分はジャンキーの犯罪者。息子には何を望むのか。
自分の未来をどうつかむのか。


前記事の自閉症児の生活が、
豊かで知性あふれるアメリカの知的階級を象徴するとすれば、
こちらはスコットランドの場末の豊かさからも知性からも見放された階級の象徴だろう。

自閉症児は親から独立し一人暮らしを始めるが、それは、
経済的豊かさに裏打ちされた絵空事にすぎない。
経済的サポートがなければ明日にも断たれる命だということだ。
死と犯罪とヤクとセックスと裏切りと反吐に満ちた社会で、
その社会しか知らない若者が自分で生きていくということがどういうことかは、
こういう映画を見ない限り、私たちは知りようがない。


20年前の前作はスピード感溢れるかっこ良さと90年代のミュージックシーン、
新しい映像感覚で一時代を席巻した映画だけれど、
20年たって皆ただのオヤジになってみれば、
20年経っても相も変わらず、明日を模索するしかない、ってことなのか。


「生きる」ってことはまあ、なんとややこしいことなんだろう!



覚え書き

「ぼくと魔法の言葉たち」という映画を見た。
自閉症の子どもがディズニー・アニメーションを通して世界を認識している、
ということを理解した家族が子どもとのコミュニケーションを取り戻すという
ドキュメンタリー映画だ。
ぼくと魔法の言葉たち
(↑ここをクリックしてホームページに行くと予告編も見られる。)

ご両親の愛情がひしひしと伝わって、とても感情が揺さぶられる。
お兄さんの愛情と責任感にも感心する。

感情表現が大げさでわかりやすく、
人生の荒波に必ず前向きに取組む姿勢で作られるディズニー・アニメ。
それにになぞらえることで、社会と自分の感情は理解しやすくなる。
しかし男女は必ずハッピーエンドを迎え、
優しいキスを交わすことで終わってしまう映画では、
セックスとはどういうことかを教える事はできない。
お兄さんはそう言って悩む。
本当の人生には悲しい事も、苦しい事も、嫌な事も、別れもあるのに、
それに対処していくにはどうしたらいいのか。

このドキュメンタリーの家族はかなり知的にも経済的にも恵まれているから、
愛情も教育も医療もセラピーも介護も充分に受けられるけれど、
世の多くの自閉症児の実態はどうなんだろう。

映画の予告や解説ではサラッとしか触れられないけれど、
この子を残して先に死んでいくご両親の気持ちを思うと胸が締め付けられる。
私は自分の息子がパートナーを見つけてくれて、
そのパートナーに息子を託せたら本当に安心だと思う。
健常者の息子でもそう思うのだから、障害のある子どもを残して先に死ぬなんて、
たまらないだろう。

ペットを飼うのはその死を看取るのが辛いというけれど、
看取る事ができるだけ幸せかもしれない。
一人で生きられない子どもを残して先立つ、その無念さは救いがたい。


誰もが生きる権利を持つ、誰もが人生の意義を自分で決められる、
我々人間社会がそう決めた以上、
どの子も我々人間全てが責任を持って生かさなければいけないのだ。

疑問

自分が世界を見る見方とか、正誤、好悪の判断基準とかは、
子どもの頃の親の考え方に根ざしているものが多い、と感じる。
成長することで社会から自分で学んで得たものもあるかもしれないけれど、
その根底にあるものは、生まれ持ったものと、親の影響が大きい、
というのは否めない事実であり、私はそれが嫌ではない。

平凡ではあったけれど真面目で頑固で勤勉で信心深い父と、
従順な小心者でありながら小さい反抗心と柔らかい勝ち気さを持った母、
そして茶目っ気のある二人からもらった
私の考え方感じ方性格はそう簡単に変わるものではない。


人はそれぞれに自分の信条に沿って生きていて、
誰もがわざと悪い方向を向いて生きているわけではない。
誰もが幸せになりたいと思っているし、その権利も自由もあり、可能性もある。

それはわかっていても、他人の感覚がカンに障って、心がサワサワとすることがある。

頭では理解できても、気持ちが納得しかねることもある。


そういう時はどうしますか?
黙ってそこを離れますか?


他人と過去は変えられないけれど、自分と未来を変える事はできる、
なんて言いますけれど、
それが一番困難なことだと思います。


春だから・・

遅いの早いのと心配しなくても、時機がくれば季節はめぐる。
間違えることなく桜は咲き、人は浮かれる。
面白いね。

どこで見る桜も大差はないとは言え、まあ、知らない所へ行って見るべと、
駒込の六義園に行ってみたが、並んで入場したわりには、瀕死のしだれ桜があるだけで、
なあんだ、と即退散。
上野へ移動。人の波を眺めた。

2017上野


西洋美術館でシャセリオー展を見る。
テオドール・シャセリオー。
1819年カリブのイスパニョーラ島でラ・ロシェル出身のフランス人と
クレオールの地主の娘の間に生まれる。
1821年家族でフランスに帰国。11才でアングルのアトリエに入門。

シャセリオー展
(カバリュス嬢の肖像  部分)

彼の描く絵は質感が真珠のように上品で、なんというか、しっとりとしながら、
パウダリー、温かい、ベルベットのような感じ。

こんなに上手く描けるなら崩す必要は全くないね、と思わせる。
彼にはデッサンをしたり、ポーズをとったり、モデルになったりしたミューズが
何人かいたのだけれど、こんな風に描いてもらえて、
彼の寓意に満ちた絵の中に自分の姿が残るのだとしたら、
それはゾクゾクするほど、素敵なことだと思う。


音楽は時間の芸術ではじまりから終わりまでそこにいないと経験できないけれど、
絵画はもっと直接的で、「見る」という一瞬で伝わる。
「絵」にはそういう力がある。

そして自分がいなくなっても絵の中で微笑んでいられたら素晴らしい。


シャセリオー2
(シャセリオー自画像)

自画像って凄い。

音楽は誰のもの?語るのは誰のため?

音楽は演奏する人のものだ。

人前で裸になって、もはや言い訳も効かず、
全身、自覚のない緊張で縛られ、
自分自身が out of control に陥り、
セーフとアウトの狭間を浮いたり沈んだりしながら、
息も絶え絶えに向こう岸までなんとか泳ぎきる。
あーあーあー、と絶望と悔恨とにさいなまされながらあたまをかきむしり、
もう二度とやるもんかと思いながら、
その痛みを忘れると、えへへ、と言いながら次の演目を考えている。

これは絶対イケルと思っている時は、
どうしかけるか、どこまでヤルか、いややりすぎちゃいかん、
今のはどうだったろう、こんなもんかなあ、ここを聴いてもらえたかなあ、
ウフフフフ、と気味の悪い笑いをかみ殺す。

なんて馬鹿みたいなことなんだろう、と思いながら、
どんな下手でも聞くよりやる方が絶対に面白い。

語るのは(いまのところ)自分のため。


義太夫三味線 ドラマ「ちかえもん」


out of control の大汗をかいたのは先日演奏会で、
右の人みたいに三味線を抱えていた時。

「うひひ」と快感に酔いしれていたのは、次の日「まっかべ村」の村文楽に行って、
左の人みたいに素浄瑠璃を語っていた時。


鷺坂坂内  鷺坂坂内2
               (画像はお借りしました)

私は『仮名手本忠臣蔵』の「鷺坂伴内(さぎさかばんない)」役。
歌舞伎の役者だと「戯れ隈(ざれぐま)」という隈取りをします。


鷺坂坂内3

文楽だとこんな人形が演じます。


こういう役、大好き。

うひひ。

日本人の感性

能の地謡(じうたい)は複数人で同じことを謡う。
いつ扇を持つか、どこまで音を伸ばすか、いつ扇を置くか、
いつ立ち上がるか、などの「きっかけは」大体この辺、という大枠が決められているが、
この音の前とか、後とか、何拍とか、きっちり決まっているわけではない。

それが複数人でみっともなくバラバラしないように合わせるためには、
全員の「こころづもり」が合わなければならない。
あわてない、早すぎない、遅すぎない、適度な場所で適度な速さを、
一人一人が計算しなければいけない。

これは実は結構高度な事だ。

これは邦楽に共通する特徴で、音程や拍も全くないわけではないが、
きっちりあるわけでもない。
その時々、人々の総意で決まる、とも言える。

これが洋楽との決定的な違いだ。
洋楽の例えば拍感は、はじめに時計や物差しなどのスケールありき、だ。
だから「きっかけ」を登場人物の総意で決めることができず、指揮者が必要になる。

一概にどちらがいいとも悪いとも言えないけれど、
洋楽の決まりが「不自由」に感じられることもあり、
邦楽の自由さ(音程や拍の不確かさ)が気持ち悪く感じられる事もある。


能楽師の先生がオペラ歌手とコラボレーションの新作を創っていて、
オペラ歌手や演奏家たちの受けてきた教育の融通の利かなさに
いらだつことがあるのだそうだ。


息子が小さい時、バイオリンを弾く時、
ゆったりした所はとてつもなくゆっくり弾き、
速い所はとてつもなく速く弾いて、いつも先生に注意された。
一小節の長さは指定された速さで決まっているのだから、勝手に変えてはいけない。
曲想で速く感じられるところも遅く感じられるところも、一小節の長さは同じだ。
決まったスケールの約束の中で速い遅いを表現しなければいけない、ということだ。

息子はそれにすごく反発して、自分の感じるように弾きたいと言った。
それは楽譜の約束事に反する事だし、実際遅すぎたり速すぎたりして聴きづらい。
それを理解させようと、メトロノームで拍を刻んで弾かせたものだ。
結局、息子はわかっていて反発していたのだけれど、思春期が過ぎて、
少し落ち着くまではそのことに随分こだわった。


当時は親としてどうしたものか、と思ったけれど、
息子の言うこともあながちわからないわけではない。
息子は極端だったのかもしれないけれど、
スケールありき、というのは実は便利だけれど不自由なのだ。

日本人の感性は高度だなあ、と思う。

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