友だち

友人が、私の住む路線沿線の介護施設に母親を入所させた帰りに、
途中下車して、久しぶりに会った。


長男が生まれる前だから、もう30年以上前になる。
その友人の実家の中華料理屋をちょっと手伝ったことがある。

彼の一族は「小説より奇なり」を地で行く数奇な運命の中にあって、
孤軍奮闘するお母さんを見かねた彼が、ヒマだった私に手伝いを頼んだのだ。


彼自身もそれから、信じられないような事件ばかりに遭遇し、
お母さんが頑張っていた店も、その後、恩人に大金を持ち逃げされて畳んだ。


あの頃、本当に誰よりも力強く大きな声を出して頑張っていたお母さんも、
もう80を過ぎ、頭はしっかりしてはいても、足がきかなくなって車椅子の生活で、
かつての立ち仕事の無理がたたったのだと彼は言う。

すったもんだの大事件を経て離婚して一人者になった彼が食べることや生活全般を、
10年ほどできる限り支えてきたけれど、諸々限界で、
お母さんを説得して施設への入所を決めたのだそうだ。
10カ所以上の施設を見学して、雰囲気と介護者が明るく、
入所者が幸せそうにしている所に決めたのだと言う。
今までは彼が出来合いのものを用意したり、老人向けの仕出し弁当を利用したり
してきた食事も、施設で食べることができる。
ありがたいけれど、本音を言えばまともだったら、あれは食べられないなあ、
と彼は言う。


みどり鬼


私は、認知症の父が施設で暴れたり問題を起こしたりする度に呼び出されたことや、
母が施設の(子どもだましのように見える)レクリエーションに参加する姿が
可哀想で情けなくて、妹と泣けてしまったことや、
身体の自由がきかなくなっても頭だけはしっかりしていた母が、
全く美味しくなさそうなドロドロの食事さえとれなくなって、
胃ろうをするのが恐い、と筆談したこと、
鼻からの栄養チューブだけでも身体だけは丈夫だった父が、
認知症が進んで、私が行っても空を見つめるだけで、
そんな生活が7年も続くと、通うことも苦痛になってくる、その、
良心の呵責に苦しかったことなど、などなどなどなど、諸々、
思い出してしまった。


彼はこれから、離れた所にいる母を思って、もっと大変だろうなあ。


こうなったら、ケツの毛を抜かれるまで「先物」をとことんやってやる、
懲りない彼はそうやってまた彼なりに人生に立ち向かっているけれど、
それは「立ち向かう」というよりも「歯向かう」に近いなと思った。


半端なく身体を鍛えているという自負のある彼は、
最近スポーツジムで、ダンベルやら運動器具を少しでもきれいに置かなかったり、
自分のテリトリーに無自覚に近づくヤカラが許せなくて、喧嘩を売ってしまうのだそうだ。

「それは老化だよ」と言ってやったら、目を丸くして、
「そうか!老化か!それは気がつかなかった!そうか!」
といかにも得心したように大声を出した。


そうなんだよ。
30年もたてば、親だけでなく、私たちも、もう、
老化しているんだよ。

自分も大切にしてね。


ほんと、そう思う。




これから

私と同い年の男性が、「あと20年かなあ」と言う。
身体が丈夫で、何事もなければ、
あと20年は楽しんで生きられるんじゃないか、と言う。

あと、20年か。

短い。


おぎゃあと生まれて、ハタチまでだ。

しかもその赤ちゃんからハタチまでの20年間に
目を輝かせて経験して吸収する沢山の未知のことに比べたら、

私たちがこれから経験できることはほんのちょっぴりだ。

赤ちゃんのほっぺたがちょっとの傷なんかあっという間にスウッと治ってしまったり、
ちょっとすっころんだって、猫より柔軟だったり、
一日一日目に見えてできることが増えていったり、

そういうことの逆のことを、これから経験していく、
牛の歩みになり、できないことが増えていく、
という20年、

ちょっときついなあ、悲しいなあ、と正直思ってしまう。


鳥居


この道はどこへ通じているんだろう?



ヒーリング

私は根が天の邪鬼にできているせいか、 
いわゆるナチュラリストというのか、自然派の、
身体にも心にもいいものを追い求めてます的な、
良くできた女が大嫌いだ。

相手のためにいい言葉をかけましょう、とか、
日のひかりの中で幸せを感じましょう、とか言われたら、
大きなお世話だと思うし、嫌みか?と勘ぐる。


だから、
 
「 どんな時も自分のカラダだけは自分に寄り添っていてくれる。

  口から出る言葉は自分に返ってくる、悪い言葉も自分に返って自分を傷つける、
  だから口から出す言葉には気をつけよう。 」

などというヨガのインストラクターの言葉は、
私が素の状態だったらすんなり入ってこなかっただろう。

声を出している時、インストラクターが私に近づく気配がして、
何事かを高めの声で投げかけたけれど、私はそれがイヤで、
低めの声で抵抗していた。
何かこう、そういうアプローチがイヤで、
勝手に悟りたいクチなんでしょうね、私。


90分間声を出している間、インストラクターが鳴らしていたシンギングボウル
(singing bowl)の倍音にヒーリング効果があったのかもしれない。

シンギングボウル
(singing bowl)

↓をクリックするとYouTubeに飛びます。
シンギングボウルの音
(この録音は一人の瞑想にいいと思う。ヴォイスヒーリングヨガのクラスは多人数で皆大きな声を出していたから、シンギングボウルの音ももっとガンガン大きかった)

仏様のおりんとかお寺の鐘とか、お坊さんがお経を読む時の鐘、
まさに声明やゴスペルの効果と同じだろう。


うっかりそれにやられてしまったわけで・・
心地良く真人間になれるなら、良しとします。





カラスウリの花

カラスウリの花。この花が開花するとびっくりしますよ、
といたずらっぽくお土産にくれる感覚って可愛いなあ、と思う。



声を出すということ

「音大に入って感動したことは、合唱のハーモニーが
 今まで経験したことがない程に神であったことだ」
という逸話を、何人かに聞いた。
「ただのハッピー・バースデーがハモっていて感激した」というのもある。


朝顔



私が参加している素人合唱団ではそういう経験はできない。
むしろ他人の音の外れ方が気になってしまう。
本番では自分の力を出し切るだけで、
「神のような合唱」にひたることはない。


オーケストラでも長唄でも、
聞いて感動するものは、中で演奏していても魂が震えるのであろう。


鉄線



素人がそういう経験ができるとしたら、
没我の状態でで声を出すなり、音を出すなりできる状況だろうか。


そんな疑似体験だったのが、ヨガの特別クラス「ヴォイスヒーリングヨガ」だったのかも。

ヨガは健康の為にやっているけれど、あまりスピリチュアル系や瞑想系のクラスは、
変に影響されるのが嫌でとらないようにしている。
けれど、日頃声をだすことばかりしているのだから、
もっと自由に声を出せるようになれば、と思って参加した。

多人数で90分、全身から汗も涙も鼻水も流れる程自由に声をだしてみると、
ああ、これは声明とか、ゴスペルとか、そういうたぐいのものなんだと納得した。


多人数だからこそできる音のうねりや呼吸の間や体温や波動、
それらを自分が出すと同時に全身で浴びている。
それらが肉体に影響を及ぼすのは当たり前だな、
と思った。


意味のないただの声が持つ自由さ、
音程や音階がないからこそ自由に発することができ、
ふんだんに浴びることができたのかもしれない。


蓮



満ちあふれて降りそそぐ声の中にいると、

 どんな時も自分のカラダだけは自分に寄り添っていてくれる。

 口から出る言葉は自分に返ってくる、悪い言葉も自分に返って自分を傷つける、
 だから口から出す言葉には気をつけよう。

そう言うインストラクターの言葉が、ああ、そうだな、と素直に聞けた。





絶版

十年程前、妹と親の家を片付けた時、
そのほとんどのものが、全く必要のないガラクタであり、
それらを処分する時間と労力とお金が半端なくかかる、という事実に
愕然とするというよりは、むしろ、猛烈に腹がたった。

私は親の家まで新幹線で通い、
地元の妹はゴミの日を狙って出す大量のごみをとがめられ、
車で直接焼却場に運び込むことを何回もして、
なんとか終決したけれど、
もう、家の片付けなど、二度としたくはない。

自分はそうはならないように、と思ったはずなのに、
どうやら、我が家も息子たちにとってはいらないものの宝庫で、
申し訳ない。早く、なんとかしたい。


とは思いつつ、古い義太夫の床本(台詞と譜面が一体となったもの)を
買い込んだりして、困ったものだ。

義太夫床本2
(心中天網島 時雨炬燵)
義太夫床本5
(大きさはそろっていませんが、上の本の最後の見開きです。
 黒い墨書きが詞、朱色の字は朱と言って、三味線の手。)

こういう床本はもう印刷販売されていないので、
太夫さんだった人の遺族が売りに出したり、義太夫協会が販売会をしたりしている。
文楽の人は師匠からこういう床本を借りて、真似て手描きをして使う。
私たちは自分が読める字を手描きする。

こういうものをこんな素人にバンバン売ってしまっていいのだろうか。
こうやって貴重な資料がどんどん散逸していくのに。



長唄の譜に青柳譜というものがある。

青柳譜  青柳譜2

(これも大きさが揃っていませんが、左が表紙、右が出だし部分)

これが現在、版元で印刷を停止してしまい、
印刷済みのものを順次販売して、売り切れ次第終了なのだそうだ。
すでにこの、「蜘蛛拍子舞」という譜面は絶版である。

えええええ!である。
私でさえびっくりだから、本職やら、これから本職を目指す若者やら、
芸大受験生やらは本当に困るだろうに。

私が親の家を片付けた時のゴミのように、
必要のない人や興味のない人には全くどうでもいいゴミなのだけれど、
でも、確実にこうして文化が滅びていっているのに・・・。


50年とは言わない、10年後、日本はどうなっているのだろう?

私のカケラ

大学生の時、デザイン学校の夜学にダブルスクールで通った。
そのデザイン学校の夜間コース開設第一期生だったので、
学校側も、どんな人間を集めたらいいのかわからなかったと見えて、
結果、高校の新卒生から、私のようなダブルスクール組や、
すでにデザイナーとして活躍している人、カメラマン、工芸家、絵描き、
役者、ただのアルバイター、等々の雑多な人間が集まって、
毎日夜の渋谷で飲んでばかりいたけれど、それなりに面白い日々だった。


その頃の飲み仲間が久しぶりに渋谷で集まるというので、用事の後合流した。
飲み会は4時から始まったのだ。
今や沼津のエスニック料理屋のオーナーシェフにおさまっているおじさんが、
乗車する渋谷発のバスの時間に間に合うように、そんな時間開始になったそうで、
笑った。


きゃあ、久しぶりー!
白髪になったり、シワがふえたりしても、もともと仕事をもっていたおじさんたちは、
あまり変わらない。
私は、卒業以来何十年も会わなかった一人の女性の顔を見るなり、
「あーーーーー、ゴミ袋に立体を入れて来たヒトーーーーー!」
と思わず叫んでしまった。


そうそう、昼間会社勤めをしていた彼女は、
立体を作るという課題の作品を満員電車でつぶされたくないからと、
ごみ袋に空気を入れて大きくふくらませて学校に持って来たのだ。
電車の中で「それは何ですか?」と聞かれて、「立体!」と答えたそうで、
私はそれを強烈に記憶していた。

彼女は才能も確かだったけれど、満員電車に毅然として大きなゴミ袋を持ち込む、
その気丈さに関心したのだった。


ところが、当の彼女はそんなこと覚えていないという。


優等生の彼女に比べて、デザインの授業自体はいい加減に受けていた私が
みんなに残した強烈な印象は、
学園祭でファッション科の子たちが主催したファッションショーに出て、
飲み過ぎていて、踊り過ぎてコケタことらしい。


やだー、
ヒトの記憶の中には、自分が思いもよらない自分のカケラが刷り込まれているんだ、
色々なヒトの記憶の中の色々な私のカケラを書き集めたら、
プリズムのように、キラキラと、いろいろな私が見え隠れするんだろう、


と、そう思ったら、不思議な心持ちになった。




浴衣会

義太夫の浴衣会で、私、今年は二つの演目に出ます。
一つは語りです。
もう一つは弾き語りをするおじさんの三味線の連れ弾きをします。
これは成り行きで出ることになったので、とっても不安です。

義太夫は基本、三味線と語りが一人ずつ組みます。
素人の演奏会では、そのどちらかにプロがつきます。
でないと、演奏があさっての方向に行ってしまう恐れがありますからね。

私が語りで出る演目では、大阪からいらっしゃる三味線弾きさんが三味線を弾きます。

弾き語りに連れ弾きで出る演目は、おじさんも私も素人で、すごーく不安です。
ホントにホントに不安です。
だって、おじさん、「人と合わせる」気がないんだもの。

リズムやタイミングを合わせるために、かけ声をかけたり、
息を飲んだりするのですが、それが合わない。
「あとノリ」のリズム(ン、タ、ン、タ、)ができないので、自分なりのリズムで進めてしまう。
休むべき所に休みを入れない。


三味線弾きの先生が違うよ、と指摘しても平気。
おじさん曰く、三味線弾きの言う通りに弾かなくていいんだって。
昔の録音を聴いてもいろいろだし、先生によってもいろいろな弾き方があるから、
自分なりに弾けばいいんだって。下手でいいんだって。

えー!それはもはや義太夫ではないだろー!

私は「このはげー!」とは言いませんし、修行だと思って本番に出ますけれど、
それは違うだろー!と思います。

こういう「おじさん」実はわりといます。

昔から、素人の旦那衆はお師匠さんに褒められておだてられて、
気持ちよくなることが目的で、稽古に通う人も多く、
今でも、そういう発表会はいっぱいあります。
素人はお金をいっぱい貢いでくれる「御連中さん」なので、
お師匠さんも、きついことは言わず、うまーく転がすわけですね。

でも、それに乗せられているのもつまらないと思いますけど・・。


「最善手」というのはどんなものにもあって、それを身に付ける、
追求することが「最善」に近づく方法だと思うのですよ。

追求しても技量が及ばなくて下手なのは恥じることではないけれど、
はなから追求することを放棄するのは、いかん、と思います。

宇宙の秩序の中で

クレマチス

読売新聞6月14日付夕刊によると、
アインシュタインが「神」について語った手紙が新たに見つかったのだという。
ブラジル・サンパウロに居住していた物理学者ボーム氏に宛てた
1954年の手紙で、アインシュタインは、
「もし神が世界を創造したのだとしたら、彼の一番の気遣いは、
 われわれにとって世界を簡単に理解できるものにしないことだったに違いない。
 50年来それを強く感じている」
と書かれているそうだ。


神様は我々に「宇宙」というそう簡単には解けないような難問をお与えになった。
有り余る時間とともに。
まるでゲームのように。

我々は混沌の中に放り出された宇宙の孤児のように見えるけれど、
果敢にも、その宇宙の秩序を読み解いて、着実に正解に近づいている。

近づけば近づくほど、その正解らしきものが逃げてゆくけれど。

でも、世の中は全くの無秩序、混沌の中にあるのではなく、
実は美しい秩序の中にあるのだ、
ということを知ることは、なんて気持ちがいいんだろう。


庭



音楽も同じ宇宙の秩序によって記譜することができ、
それを読めさえすれば、世界のどこにいても同じ音楽を奏でることができる。
それは長唄や義太夫の邦楽であっても同じことで、
先人が苦労して、無秩序に見えるものの中に秩序をみつけてくれたおかげで、
私たちはそれを読み解いて、皆で演奏することができる。

それを駆使すれば新たな楽曲を創造することもできる。

そういうのは、ちょっとすごいなあ、と思うのだ。

産めば海路の日和有り

嫁に対して「子ども産むなら早い方がいいよ」とは言えないのは、遠慮からだけではなく、
当然お嫁ちゃんの事情への思いやりや配慮からです。

人にはそれぞれ考え方や事情や生理的都合があるので、
それらを無視して意見することなどできないからです。

が、しかし、それでもなお、もっと素直に本当のことが気楽に口に出せたら、
「早く言ってくれたらよかったのに〜」ということはなくなるだろうと思います。

というのも、欲しいと思う頃には、年齢的に生理的に、
生物学的な産み時を逸していることが多いからです。


現代では40を過ぎても50を過ぎても、
あの手この手で妊娠出産をすることが可能な世の中になりました。
自分自身の卵子が老化して使い物にならなければ、
若い女性から卵子の提供を受ければいいし、
配偶者の精子が使い物にならなければ、精子バンクから提供を受ければいいのです。
受精卵を戻すべき自分の子宮に問題があれば、借り腹をすればいいわけだし・・・。

もう、いっその事、養子縁組じゃだめですか?


若くして望まぬ妊娠をしたけれど、出産して育てることが不可能な女性の子どもを、
豊かな資産はあっても子どものいない夫婦が育てることは可能です。


子どもが欲しい、育てたい、という希望があれば、なんとかなる世の中になりました。



それでもなお、自分と自分の配偶者の間の子どもを自分自身が産み育てたい、
という希望を持つのはものすごく自然な気持ちで、
それなら、絶対、早い方がいいのです。



友人に「私、もう45だよ。」そう言って、泣かれても、なんだかなあ。
「どうしようか、何回受精卵を子宮にもどしてもできないし、
 もうやめようかと思うけれど、まだ、二つ凍結受精卵があるし、
 もう少し頑張ってみる。」
自分でそう結論を出すのなら、やめろという権限は私にないし、
その時点で配偶者は60をとっくに過ぎ。
それでも有り余る資産があるからいいんだろうけれど、
どうなの?それって。

夫には前妻との間に妻に近い年齢の娘もいるわけだし、もういいじゃん、
と思うけれど、
妻にしてみれば、「私と夫との子が欲しいっ!」て思うわけだし、
子どもを持つ事が彼女の生き様として切実な願いなわけで。


どんなに文明が進化しても妊娠出産はものすごく原始的なことをくりかえしているわけで、
それが現実なのですよ。


だから、四の五の言わずに、さっさと産んだ方がいい、と思うわけ。
産めば、海路の日和有り。
今大変でも助けてくれる人もでてくるし、力になってくれる人もいる。
なんとかなるからさ。


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忖度社会

海辺の街の友人の家に小学校時代の友だちが集まったのだけれど、
それぞれに家庭を持ったり、持たなかったり、同じ年月を重ねて、
孫のある人もいて、「孫バナシするようになったのかあー」と、
感慨にふける。

息子のある人、娘のある人、その息子に嫁のある人、息子がバツイチの人、
嫁に出した娘のある人、嫁に行かぬ娘のある人。

今回は女ばかりが集まって、言いたい事言い合って、気楽に愚痴が出る。


私は娘を持たないので、長男の嫁さんとのうっすらとした距離感に戸惑いがある、
ということを話す。
お嫁ちゃんはすごく良くできた子で安心だし感謝してるけど、
自分の娘だったらもっと遠慮なく言ってしまうかもしれない事も、
グググっと我慢して言わずにおく、ということもある。
キャリアを積みたいのもわかるけど、子ども産むなら早い方がいいよ、とは言えない。
「それは自分の娘に対しても同じよー」娘をもつ人が言う。
本音は言えない、言わぬが花、なのよね。


あああ、昔の様に遠慮のない親戚のおばちゃんが独身の身内をつかまえて、
「あんた、さっさと結婚しないと行き遅れるよー」と言ったり、
結婚したら結婚したで
「さっさと子ども作った方がいいよー。
 40過ぎて早く生んどきゃ良かったって思っても遅いよー」
と、情け容赦なく、言葉の爆弾を振りまくことなどなくなって、

なんか、表面はみんなお利口でよそよそしい。


言葉爆弾のおばちゃんがいいと言うわけではないし、
私だって、そういうおばちゃんをデリカシーのないウルサい奴めと思っていた。
生めない事情、大人の事情、人に気安く語れない事情、あるかもしれず、ないかもしれず、
それはわかる。
だからその辺、こちらも当たらず障らず。
疲れることこの上ない。


美人に美人と言っても、ブスにブスと言っても、
セクハラ、パラハラ。
出産など個人の性に関することなど、口に出すのも、もっての他だという風潮。

ああ、しちめんどくさい、キュウクツだ、と思う。


こういうのを忖度社会というのだよ。

相手を傷つけまい傷つけまいとして、いつのまにか自分が傷ついているのだよ。

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