日常をすくいとる

たまに、一日中朝から晩まで歌舞伎や文楽や邦楽演奏を観ていたり、
展覧会のはしごをしたり、映画を何本か見続けたりする。
こちらはただボーっと座っているだけで、目の前で人様が色々なことをしてくれて、
なんて贅沢なんだろう、と思う。


9月のある日、立て続けに3本の映画を見た。
雨がひどく降る日で、さすがに疲れた。

①ダンケルク      クリストファー・ノーラン監督   
 1940年フランス北端ダンケルクに追いつめられた英仏連合軍40万人の兵士の救出劇

②ギミー・デンジャー  ジム・ジャームッシュ監督  
 ロックスター、ザ・ストゥージズのイギー・ポップのドキュメンタリー

③パターソン      ジム・ジャームッシュ監督    
 アメリカニュージャージー州パターソン市のバス運転手で詩人のパターソンの1週間


どれもあまり期待もなく、思い入れもなく見たのだけれど、意外に面白かった。

最後の「パターソン」では「スターウォーズ フォースの覚醒」でカイロ・レン役だった
アダムス・ドライバーが、詩を書く運転手の淡々とした日常を嫌みなく演じている。
少女の髪に落ちる光りを手の平にすくい取るような、そんな詩の生まれ方も悪くない、
と思わせる。
ジム.ジャームッシュ監督が、
パターソン市出身の実在の詩人ウイリアム・カーロス・ウイリアムズの詩集を読んだ、
というところから生まれたこの映画は、
「詩」というものの存在理由を教えてくれる気がする。


先日、たまたまNHKBS1で放送していたドキュメンタリー「地球タクシー プラハを走る」
を見た。
ディレクター、カメラマン、通訳が現地のタクシーに乗り込み、
タクシードライバー本人の好きな場所、思い入れのある場所を案内してもらう、
という紀行番組なのだが、
生活の事情や人生をボソボソと語るドライバーたちの言葉が、
次第に哲学を語っているように思えてくる。
誰もが詩人なんだ、と思えてくる。


映画「パターソン」の詩を書くバス運転手もドキュメンタリーのタクシードライバーも、
淡々とした日常をすくいとる、味わう、ということを教えてくれる。


その味わい方は人それぞれだなあ、と思う。


最初が肝心

「アメリカ人の夫の兄弟の結婚式に列席するにあったって、
 着物を着た方がいいかどうか夫の母親に尋ねたら、
 着てくれたら嬉しい、ということだったので、
 では頑張って練習して着られるようになったら着ます、
 と答えたら、民族衣装を着るのに練習が必要だとは思わなかった!!と驚かれた」

という方が店で訪問着一式をお求めになったので、着方のレクチャーをすることになった。
前回は他の従業員が教えて、今回だけ私が引き継いだので、
とりあえずできるところまでご自分でやっていただいた。

ん?まず、第一に足袋をはかなくては!
女性が礼装用の着物を着込んでから自分で足袋を履くことは困難で、
外国の方が他人に足袋を履かせることはもっと困難だ、ということがまず、わからない。

襦袢(下着)は胸を包むように丸く着付ける。
あれ?なんとか襦袢をつけたとして、
着物の合わせ方は右が上ですか、左が上ですか?
左が上になるように(右手が懐に入るように)着る、と頭ではわかっていても、
手が慣れないと洋服の感覚になるし、鏡を見ていても逆になる。

着物はだだっ広い布を身体に巻き付けるので、
ただ形式的に身体の前で中心を計って巻き付けても歪むし、広い幅の収まりがつかない。
左脇線を決めて、自分の前面の着姿を決め、余りは身体に巻き込んでしまう。

空気を抜いて、余分は下に流し、見える所は折り紙のようにきっちり折り込む。
女性の着物は、不都合は見えない所に隠せばわからなくなるようにできている。

紐でも帯揚げ帯締めでも、締めるときは左から来るものが必ず上。
紐は背中側で締めておかないとお腹ではいくらやっても締まらない。

などという要点がわからないと、昔の人のようなダバダバした着付けになる。
現代の日本人ならやはりスッキリきこなしていただきたい。


とここまでやって、
この要点は全て私が初めて着物の着付けを習った先生の教えだと、気が付いた。
着付けのブラッシュアップのために何人かの先生に習ったけれど、
今人様に教えるときに口にしているのは最初の先生の教えだなあ、と
今更ながら思う。



第九の合唱の先生が言うには、
何年も何十年も第九を歌い続ける人もいるけれど、
舞台の上に立った時、頭が真っ白な状態でパッと出てきてしまうのは、
最初に習った歌い方だ、と。
児童合唱団にいた人は子どもの頃の発声法が出てしまう。
何人かの先生に習ったとしても、とっさの時には、最初にやった歌い方が出てしまう。

だから、マエストロ(指揮者)が変わって歌い方の指示が変わっても、
本番で、とっさに昨年までの習性が出てしまう。
だからこそ、何回も身にしみ込むまでの練習が必要なのだ、と。


何事も初めが肝心。
修正は徹底的に。



相変わらずテレビは衆院選のゴタゴタを面白可笑しく報じて、
何やら相撲の番付予想のようで・・・。

そもそも、「安倍一強倒し」というのは政策でも何でもない。
それを選挙のお題目に掲げること自体おかしい。

全てとってつけたような政策を列挙しても、
選挙後のことしか政治家は考えていないから、後でそれはないだろうって言ってもだめ。
どんな世界にもプロはいて、政治の世界でも同じ。
政治こそ右も左も世界の大局をも見通せるプロにお任せしたいものだ。


安穏な生活を蹴って世界の荒波に打って出る人間でないのなら、
せめて大局観に立ちたい、と私は思う。



さて、今朝は寒かった。
外出するのに、何を着たらいいのかわからず、
「はて、昨年の秋は何を着ていたのか?」と。

今まで普通に着ていたものがどうにも似合わなくなる、
あるいは、着ようという気がなくなる。言いたくないが年なのか・・。

何につけ根気がなくなる。すぐ飽きる。

何時間でも何日でもやり続けられたことが、できなくなる。
もう、いや!、あるいは、もう、いいや!

これからの人生で何かを深めていくことは、なんと困難な道だろう。
何もかもが上滑りで終わりたくはない、そうは思うものの、
はいおしまいです、という時に、自分はどこにたどり着いているのだろうか、とふと思う。



第九の経験談

毎日毎日、日本の政界の阿呆のような状況が報じられ、
はじめはいらついていたのが、次第に笑えてくる始末。
馬鹿な国。



と、そうも言っておられず、我が祖国。



今の東京は全都ほぼ観光地化して、
わけのわからない外国人が大きなスーツケースを、押したり引っ張ったりしてのし歩く。
ガヤガヤガヤガヤうるさい人たちが街を占拠して暮らしている。

それに比べたら、日本人ってなんて清潔でお利口で優秀なんだろうと思うけれど、
残念ながら色々気が回りすぎるのよね。

それはそれで自然に安全弁の役割をになっているのかもしれないけれど・・。



が、私たち私人は政治と宗教については公にせず、
立ち位置の表明もしないのが、日本流てか、波風立てない方法なのか。
突き詰めないのが日本流かも、我が祖国。



というわけで、また第九について。

昨年ソプラノで参加して、今年はアルトで参加。
んんんん・・・・・  アルトは・・・メンドクサイ!

頭が疲れる。
メジャーな旋律を歌うのははっきり言って、楽で楽しいのだ。
CDを聞いて一緒に口ずさめるのは主旋律でしょう?普通。
そこからアルト、テナー、バスの旋律を聞き取れるのは、
よほど耳の優れた人。
そして、どんな音にも惑わされず、主旋律以外の旋律を歌える人は、
よほど音感の優れた人。

何もない所で入りのタイミングと音程を間違えない、
というのは、なかなか大変なことです。

それと、なぜか、アルトの人独特の雰囲気があって・・。
何だろう?重い。
頭を使い過ぎだからだろうか。
なんか、歌って楽しいね!という雰囲気はない。

で、意地で12月の第九の本番までは頑張るけれど、
次はない・・・かもしれない・・・。


アルトとかね、中声部って、なんというか、
右でも左でもないけれど、自己主張だけはしたい右よりのおばさんみたいなのよ。
頭でっかちさと、本質のなさが・・・。

性格的にあわないのね・・・(笑)



わっかるかな〜、わかんね〜だろうな〜。

例えば「ベートーベンの交響曲第九番第四楽章合唱 歓喜の歌」いわゆる第九。

例えば「勧進帳」。

誰もが知っている出し物は、誰もが素直に入り込めて感情移入がしやすく、
感情が揺さぶられて感動する。
聞きやすく、耳馴染みの良いポピュラーな旋律が記憶しやすく、
簡単に口ずさむことができる。
思わず自分も演奏に加わりたくなり、できそうな気になり、
参加することに意義があるつもりになり、
参加して、出来た気になる。

そういったものがまさしくポピュラーであり、
ご多分にもれず、私自身も一生に一度は第九や、勧進帳を経験してみたくなり、
やってみた。


なるほど、と思うことはいっぱいあった。
まず、楽しい!やった感が半端ない!出来た!ような気がする。
技量の足りていない所は自覚できても、それがなんだ、という気になれる。
なんだか参加したことが勲章のような気持ちになれる。
これは心の健全化には効果があるし、老人の活性化やそれに伴う経済効果もあるだろう。
まさにポピュラーとはそういうものだ。



こういった曲とは逆に、演奏会などで聞いても、とにかく退屈で寝てしまい、
たまたま寝なくても、何回聞いても記憶に残らない、という曲も多い。
ひどいのになると、かつておさらいしたことがメモにはあるのに、
それこそ1ミリも記憶がない。
演奏会で聞いても、こんなフレーズあったかも・・、と思いつつ、
んんん・・でもなんだかつかみどころがなくてわからない。


今長唄でお稽古している「喜三の庭」もそうだ。
(8月9日「品格」の記事参照)
お稽古しても、まず、理解に時間がかかる。
三味線と唄の不即不離、関係あるようでないようで、
実はお互いがなくてはならない関係で、補足しあって「粋」を生み出す。
それを理解して身体(腹や喉、手)になじませるには時間がかかる。
なんとも意のままにならない気持ちの悪い状態が常態化する。
助けて〜!

これを聞いてもわからんだろうな、面白くないだろうな、寝るだろうな。


「それをこなす快感があるんですよ。」
それはわかる。
わかるけれど難しい。


いろいろな芸能があるけれど、見てわかって楽しめるものは(ポピュラー)
底が浅いとは言わないけれど、まさに大衆迎合であり、
それの何が悪い!と言われて返す言葉はなく、何にも悪くはないが、
玄人好みではない。(そして実は突き詰めると恐ろしく難しい)

とっつきの悪い何回も何回も脳を通過させないと理解も記憶もおぼつかないものは、
大衆に見向きもされないが、わかる人にだけわかるゾクゾクするような快感を生み出す。


だからね、芸能は見るよりやる方が面白いのです。
下手でもね。


なんかひっかかるのよね

今どき、人生100年なんだという。

長いぜ。


先日テレビで長寿者の多い京都府京丹後市のご長寿さんを取材して放送していたが、
長寿者の特徴は老後活発に趣味に生きていることと、
ビタミンCの摂取量が多いということだった。
60で退職してから能面打ちをしている人、絵を描いている人などなど。
100才前後のどの方も老人の醜悪さはみじんもなく、溌剌としていた。

懸命に生きて子孫を残し、人としての勤めを果たしたら、
趣味に邁進して円満な死を迎える、

理想だ。




何十年も趣味だけに生きて、飽きないのだろうか?
疑問。
というか、山のように出来上がる作品は子孫の断捨離すべきゴミとして死後残るのか?
私も母の母の母の写真をどうしたらいいのかわからない。

今100才前後の方々は年金で守られて豊かな老後を送れるのだろうけれど、
私たちが100才になってもそういう世の中か?


疑問。


「変節の女王」またの名を「自分ファーストの緑のおばさん」が
過去の遺物や能無しやマスコミに持ち上げられてまたもや日本をこねくりまわすのか。
豊洲や五輪はひっかきまわしたまま放り出して、どないすんねん!!

日本ってこんな国だっけ?



芸術の秋  それから

そうなんですよ。
私も「並ぶ」のは大嫌いで、だからディズニーランドにも渋々1回行っただけという。
だから美術館の入館のための大行列に並ぶのは大嫌いです。
特に最近はメディアで宣伝し過ぎで、老いも若きも我慢大会のように並びます。
我慢に我慢を重ねて入館しても、ゾロゾロと進む人々の頭で何も見えず、
「目玉」が目に入る頃には疲れきって、「見ました」という証明を得ただけのようで、
現代の再現技術だったらレプリカで充分で、
本物を見る必要もないかも・・。

入り口の横で図録だけ売ったらいいと思います。
まあ、バカ高い図録を買っても、後であんまり見ないのですけどね。

でも、本物のサイズ感だけは体感しないとわからないんだよな〜。
だからなるべく人の集まらないであろう日に行くようにしています。




そうなんですよ、アルチンボルドはグロテスクの極みです。
15 、16世紀ヨーロッパの王侯貴族が世界のあらゆるものを収集した部屋、
Wunderkammer(ヴンダーカンマー)あるいはKunstkammer(クンストカンマー)、
不思議の部屋とか驚異の部屋(博物館の前身)に大いに寄与したのが
アルチンボルドの奇想絵画でもあります。

多毛症の人間とか小人とかを王室に抱えたりした、という事実は、
現代の洋画(映画)にフリークスを扱うものがあることにも通じますね。
人間の特徴を悪意を持って強調して描いたカリカチュアは、
スターウォーズの多様な異星人たちにそっくりでした。

ああ、こういう下地があれば、ああいった世界観もうなずける、
と思いました。


夢のように美しい宗教画や王侯貴族の肖像画と、同じ世界にあるフリークスを
笑い飛ばすようにおおっぴらに描き切るおおようさは、悪いことではない、
と思います。



そう、いいですよね、ジャコメッティ。
見えるものを見えるままに描こうとすればするほど、
サイズが小さくなってマッチ箱に入るくらいになってしまったり、
どんどん細くなって、どんどん高さばかり大きくなってしまったり、
まあ、普通の人間にはない感性の持ち主であることは事実でしょうね。


彫刻家特有のグリグリととぐろを巻くようなデッサンの線が、
私的にはゾクゾクときました。

「マッスで捕らえろ」と彫刻のクラスでよく言われましたよ。
物を塊の集合体として捕らえる、わけですね。
それで人の頭もリンゴもグルグル巻きの線で囲まれていくのですね。
やっぱりなんか懐かしい。
今はどんな風に表現するんだろう?



そんなにはしごしたら、心がいっぱいいっぱいにならないですか?って?
今の私は絵描きでも彫刻家でもないから、ならない、です。
面白い面白いと思っている。
頭と身体が疲れるけれど。


でも、ちょっと、ウッとくることもある・・。




「そんなものはみなたいしたことではない。
 絵画も、彫刻も、デッサンも、
 文章、はたまた文学も、そんなものはみな
 それぞれ意味があっても
 それ以上のものでない。
 試みること、それが一切だ。 
 おお、何たる不思議のわざか。」
            
       (『レフェメール』創刊号に掲載されたジャコメッティのメモ)




芸術の秋

最近の絵画展はキュレターの企画が面白いものが多く、
色々見たくなってしまう。

先日、9月になって人も減っただろうと、
国立新美術館の「ジャコメッティ展」に行って来た。

新国立美術館1ジャコメッティ
  
(国立新美術館)                  (歩く男)

何を隠そう、私は絵を描くよりも彫刻家になりたかった。
ジャコメッティとマイヨールとロダンが好きだと言うと、
具象しかわからん古くさい頭だと笑われるけれど、好きなんだもん、しかたがない。


昨日は上野の国立西洋美術館に行って、「アルチンボルド展」と「常設展」
そして「コルビジェ展」を見た。

国立西洋美術館

(国立西洋美術館)

コルビジェの建築作品の一つとして、この国立西洋美術館も世界文化遺産に一括登録
されているが、私はあんまり好きではない。

この美術館の敷地に入って目に入るものはロダンの彫刻だし、その後ろの建物は
分厚いコンクリートの塊にしか見えない。
「コルビジェ展」には設計図面など展示されていたが、どーもね・・・。

「アルチンボルド展」は16世紀にウイーンのハプスブルグ家の宮廷で活躍した
ミラノ生まれの画家アルチンボルドとその周辺の作家を追ったもので、
この春夏秋冬の4枚の絵などが有名。

アルチンボルド 春アルチンボルド 夏
  
(春)                        (夏)

アルチンボルド 秋アルチンボルド 冬
  
(秋)                         (冬)


その後ランチをはさんで東京都美術館に移動して「ボストン美術館展」を見た。
ボストン美術館って言ったって、その極々一部の紹介にすぎないのだから、
なんだか物足りない。

ボストン美術館展

ゴッホのアルル時代に近所に暮らしていたというルーラン夫妻の絵が目玉ということで、
二人の間に立って写真の撮れるこんなコーナーがあった。写真は撮らなかったけれど。




絵の題名と説明の書かれたプレートをフムフムと読んで、
絵から離れてホホーと眺める、歩いて移動、
フムフムと読んで、ホホー、てくてく、を繰り返して、
身体も頭も疲れた。


美術展の企画も面白いがショップのグッズのアイデアには関心する。
手を変え品を変え著作権もない名画をおちょくりまくってお金を吐き出させようとしている、
としか思えないけれど、私も結構それにはまっていらぬものを買ってしまうのだ。


で、今回すごいなあ、と思ったのが、「アルチンボルド展」で、
コンピューターで人の顔を判断して、その人の顔をアルチンボルドの絵のように
野菜で組み立ててしまう、というもの。
カメラの前に立つと、下から野菜が湧いてきて、顔になります。やってみました。

アルチンボルド1アルチンボルド2
  


私、こんな髪型じゃねーし。爆笑。


明晰夢

夢を見ながらそれが夢であると自覚できる夢を、
初めて見た、と息子が言った。

明晰夢(めいせきむ)というそうだ。
夢を見ながら自分でコントロールできるらしいよ、と。


私はほぼ毎晩そういう夢を見る。



カナルカフェ2



ネットには、どうしたらみられるのか、とか、
いい影響悪い影響などについて書いてあるが、
「浅い眠りの時に見る夢」というのが単純な正解だと思う。


私は夢の中でそれが夢だと自覚があるし、自分でストーリーをいじったり、
ストーリーを行きつ戻りつしたり、
一度起きて、続きが見たければ、もう一度同じ夢に戻ったりする。

だからよっぽど眠りが浅く、身体にはよくないと思う。



ある作家は、ある日夢を見ながらこれは小説のプロットになる!と確信して、
急いで起きて頭の中から消えて行くストーリーを必死でメモに書き写し、
それをもとに書いた小説が新人賞をとった、のだそうだ。
ただ、そんな経験はその一回だけだそうだ。

私の見る夢はいつもの日常のすぐ隣のちょっと変な日常のひとこまで、
小説になるようなものでもない。
目覚めてメモしてみたこともあるけれど、後から見てもメモの意味もわからないし、
無理に思い返そうとすると楽しくないからそういうのはやめた。
無理をしなくても印象に残っていることはしばらく頭の中で楽しく反芻する。


ちょっとそれは楽しい。


演奏する、ということ 2

前回の記事に
「芸術にはグローバルスタンダードはありえない、ということではないか」
というコメントをいただいたのだけれど、
うーーん、そうなのかもしれないけれど、

うーーーん、早い話し、おじさんに勝手な演奏されると私が困るのです。
私がプロで、伴奏をするように雇われているのなら、文句は言いません。
でも、そうじゃないし・・。

シチめんどくさく言うと、
「共通認識を持てない演奏、というものは芸術以前の問題なのではないか」
と思うのです。

楽譜とか、記号とか、言語とかを操る私たちは、そういう共通言語によって会話をし、
共通認識を持つことによって、同じ時間を共有し、演奏をすることができます。

音楽はすごーく言語に似ていて、
楽譜は頭の中に浮かぶ事象を記号化できる優れものです。
楽譜にも、洋楽の譜面あり、邦楽の譜面にも様々なものがあり、
世界中の音楽にはそれぞれ異なった面白い記譜方法がある、
それは言語の違いと似ていて、言葉や発音は違っても、
何を意味しているのかは、だれでも共通理解できるはずなのだ。

そういうのって、面白いと思いませんか?

だから、譜面の読み方さえわかれば、
時代や場所を越えて、どこの誰とでも会話ができるのです、音楽で。


もしかしたら、時代や地域によって、読み方や表現の仕方が微妙に変化して、
それが時代性や地域性を生むのかもしれないけれど、
それで、グローバルスタンダードはあり得ないことになるのかもしれないけれど、

だからって、記譜を無視して勝手に弾いていいわけでもないんだけどなあ・・・
と思うわけです。


以前、私の息子が小さい頃、バイオリンを弾くのに、
譜面の1小節はどの1小節も、同じ長さだ、という約束を無視するように、
ゆっくりに感じる所はとてつもなくゆっくりと、
速く感じる所はとてつもなく速く弾いて、先生に注意され、
本人は注意されることや勝手に弾けないことが不満だったようだ、

という記事を書きましたが、

やっぱり、それはいいことではないと思うのです。

感じるものを感じるままに表現することはいいことだ、
という言い方もできるかもしれませんが、
それは一人の世界で一人で行う場合だけの限定ですね。

あるいは、そういう風にアレンジしていいと楽譜に明記してある場合。



音楽家を題材にした漫画や小説、映画などは、
「定められた演奏をから逸脱した素晴らしい才能の持ち主」みたいな人を
主人公にしているケースがありますが、それは本当に定められた演奏を熟知した上で、
あえて逸脱した演奏ができる場合のレアなケースに許される、のだと思います・・が、
いかがでしょう?
逸脱したものを安易によしとしている映画などは、ちょっとちがうなあ、と思ったりします。


(例えば、「四月は君の噓」は広瀬すずは超可愛かったけれど、
 メチャクチャな演奏だけれど、人の気持ちに訴えるから良しとする、
 なんて、そんなのないよねー、と思います。
「マダム・フローレンス!夢見る二人」で描かれる
 フローレンス・フォスター・ジェンキンスなんて、絶世の音痴だけれど、
 彼女のように、超絶音楽を愛して努力する人は認められるべき人だと思うのですよ)


早い話し、私が問題にしているのは、二人以上で演奏する時、
せーので一緒に演奏できないのは、困る、ということなんですけどね。


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