演奏する、ということ 2

前回の記事に
「芸術にはグローバルスタンダードはありえない、ということではないか」
というコメントをいただいたのだけれど、
うーーん、そうなのかもしれないけれど、

うーーーん、早い話し、おじさんに勝手な演奏されると私が困るのです。
私がプロで、伴奏をするように雇われているのなら、文句は言いません。
でも、そうじゃないし・・。

シチめんどくさく言うと、
「共通認識を持てない演奏、というものは芸術以前の問題なのではないか」
と思うのです。

楽譜とか、記号とか、言語とかを操る私たちは、そういう共通言語によって会話をし、
共通認識を持つことによって、同じ時間を共有し、演奏をすることができます。

音楽はすごーく言語に似ていて、
楽譜は頭の中に浮かぶ事象を記号化できる優れものです。
楽譜にも、洋楽の譜面あり、邦楽の譜面にも様々なものがあり、
世界中の音楽にはそれぞれ異なった面白い記譜方法がある、
それは言語の違いと似ていて、言葉や発音は違っても、
何を意味しているのかは、だれでも共通理解できるはずなのだ。

そういうのって、面白いと思いませんか?

だから、譜面の読み方さえわかれば、
時代や場所を越えて、どこの誰とでも会話ができるのです、音楽で。


もしかしたら、時代や地域によって、読み方や表現の仕方が微妙に変化して、
それが時代性や地域性を生むのかもしれないけれど、
それで、グローバルスタンダードはあり得ないことになるのかもしれないけれど、

だからって、記譜を無視して勝手に弾いていいわけでもないんだけどなあ・・・
と思うわけです。


以前、私の息子が小さい頃、バイオリンを弾くのに、
譜面の1小節はどの1小節も、同じ長さだ、という約束を無視するように、
ゆっくりに感じる所はとてつもなくゆっくりと、
速く感じる所はとてつもなく速く弾いて、先生に注意され、
本人は注意されることや勝手に弾けないことが不満だったようだ、

という記事を書きましたが、

やっぱり、それはいいことではないと思うのです。

感じるものを感じるままに表現することはいいことだ、
という言い方もできるかもしれませんが、
それは一人の世界で一人で行う場合だけの限定ですね。

あるいは、そういう風にアレンジしていいと楽譜に明記してある場合。



音楽家を題材にした漫画や小説、映画などは、
「定められた演奏をから逸脱した素晴らしい才能の持ち主」みたいな人を
主人公にしているケースがありますが、それは本当に定められた演奏を熟知した上で、
あえて逸脱した演奏ができる場合のレアなケースに許される、のだと思います・・が、
いかがでしょう?
逸脱したものを安易によしとしている映画などは、ちょっとちがうなあ、と思ったりします。


(例えば、「四月は君の噓」は広瀬すずは超可愛かったけれど、
 メチャクチャな演奏だけれど、人の気持ちに訴えるから良しとする、
 なんて、そんなのないよねー、と思います。
「マダム・フローレンス!夢見る二人」で描かれる
 フローレンス・フォスター・ジェンキンスなんて、絶世の音痴だけれど、
 彼女のように、超絶音楽を愛して努力する人は認められるべき人だと思うのですよ)


早い話し、私が問題にしているのは、二人以上で演奏する時、
せーので一緒に演奏できないのは、困る、ということなんですけどね。


演奏する、ということ

人が二人以上寄れば、そこにそれなりのルールが発生して、
その関係がスムースになる。

基本概念があったとしても、その場その場、相手次第で、
変化することの方が自然なのかもしれない。


風景2



なんだか小難しい言い方になってしまったけれど、
要するに、演奏の問題である。


師匠方の義太夫の演奏会を見ても、
地方の師匠方と東京の師匠方の演奏は明らかに違う。
どこがどうって・・・。
言い方はあまりよくないのかもしれないが、
地方の師匠方の演奏は土臭い、というか、素朴、というか。
気持ち良くなって寝てしまうかも。
東京の師匠方の演奏はエンターテイメントになっていて、
目が覚める、というか、楽しめるというか、面白い。

成り立ちも求められ方も違うのだから、それは当たり前なのかもしれない、が。


私の師匠は、ある「農村文楽」に指導に行っているのだが、
そこでいつも演奏されているリズムが出来上がってしまっていて、
新人の演奏を直そうとしても、どうにも治らないのだそうだ。

それでも、その団体はその地の大学に外国から来る研究者等に、
依頼されて、日本の伝統芸能として演奏したりするそうだ。

義太夫は大阪発祥だから、大阪弁で大阪の音楽として育ってきたわけで、
呼吸や発音発声、イントネーション、間の取り方等々、
東京で、スタンダードとして演奏しているものだって、大阪から見たら
笑止千万なのかもしれない。

私が違和感を覚えた地方の師匠の演奏もその地方ではスタンダードであって、
東京の演奏は邪道なのかもしれない。

大阪の師匠方だって、「東海道中膝栗毛」という演目は「箱根を越えたらようやりまへん」
というのだそうで、「べらんめー」なんて江戸っ子の前で言えるかい、ってことだろう。

(ドイツ人の前で「第九」を歌う恥ずかしさ、と同じですね)

私が浴衣会で連れ弾きをするおじさんも、地元では依頼されてお寺などで演奏して、
好評なのだそうだ。


風景3


うーーーーーーん、おじさんが言うように、
何でもありなんだろうけれど、
うーーーーーーん、どうしたもんかなーー。



(海辺の街で暮らすとか、山の中で草木に囲まれて昼寝とか
 ふーん、望んでも得られないものは、実は多いにゃー)


ソウタの棋

ソウタの棋

イラストレーターのTAKUMIさんによる「ソウタの棋」
漫画家・小畑健「ヒカルの碁」風のイラストが秀逸ですね。

今、空前の将棋ブームです。
将棋の棋士の面々のキャラがなんとも濃くて面白い。
知り合いが世話人をする地方自治体の子ども教室は、
今まで、囲碁教室の集まりに比べてチョボチョボだった将棋教室が、
あっという間に子どもで満杯なんだそうで、ブームというのはすごいなあ、と思います。


8日放送のNHK総合「NHKスペシャル『徹底解剖 藤井聡太~“進化”する14歳~』
(再放送:7月19日(水)0:10~0:49(予定)だそうですよ。)
ご覧になった方も多いと思いますが、
渡辺明竜王や羽生善治三冠の藤井四段の将棋の解説が面白かったです。

藤井四段の将棋の特徴として、
何と言っても、莫大な数をこなした詰将棋による経験値、
そしてAIに近い感覚をあげていました。
藤井四段は詰将棋解答選手権三連覇ですからね。
詰め将棋は数十手先まで読むそうです。
AIに近い感覚というのは、今までの将棋のセオリーではちょっと考えられない手を
AIと同じようになんの恐怖心もなく打てる、ということだそうです。
セオリーに関係なく、AIが示す最善手と同じ手を躊躇なく打てるわけですね。

そして、渡辺明竜王や羽生善治三冠がそろってあげていた、
20連勝目をかけた澤田真吾六段との一戦。
追いつめられて後のない藤井四段は
持ち時間がなくなり一分将棋になった澤田六段に対して、
澤田六段が引っかかれば数十手先で自分の勝ちにつながる手を指します。
それはAIは決して最善手としません、何故なら、それは「悪手」だから。
それをあえて仕掛ける勝負師としての感覚を羽生善治三冠は絶賛していました。

藤井四段の師匠、杉本昌隆七段は、
その感覚は藤井四段が小さい頃から持っているもので、
だからこそ強いのだと、
AIからの影響ばかりが喧伝されるけれど、
決してそればかりではないのだと、強調していました。



人間ってすごいなあ。
胸がすくような、爽快さがありますね。


人間、捨てたもんじゃないですよ。


最善手 3

そう考えてくると、一つ、指標となるものが見えてきますね。

「美しい」ということ。
美は善なるものだ、ということですね。
シンプルなもの、それは美しいもの、
それでしかないもの、そこにあるべきもの、ですね。



「美」の判断基準も人それぞれ、と言ってしまえばそうかも知れませんが、
おのれを虚しくしたならば、
きっと見えてくる「美」が「最善」なのではないか、と思うのですよね。


「おのれを虚しくする」というのはどういう事かと言うと、
感情に流されない、ということでしょうか。
芸術の最善が感情に左右されるものではない、と思うのですよ。

それが、勝負や理性による最善の導き出し方と、
芸術による最善の導き出し方は、結局は同じだと思う所以(ゆえん)ですね。

そしてそこに共通するものは「美しい」ということだと思うのですよ。



私もそういう最善手が指せるといいなあ・・と思うばかりで、
技量であったり、感情であったり、おのれの弱さであったり、迷いであったり、
邪魔するものばかりたくさん持って生きているので、
なかなか満足には程遠い・・というわけです。

あ、でも、人の「感情」というのは決して必要のないものだとは思いません。
甘味な感情、苦い思い、ちょっとしょっぱい悲しさ、どす黒い感情さえも、
それがあるから生きているわけで、
うーん、でもそれと「美しさ」はどういう関係にあるのでしょうかね。
それはまだ、よくわからないなー。


最善手 2

勝負という明確な目的のある将棋には、
あらゆる局面で明確な最善手があるのは当然ですね。

それに比べて、音楽、美術、芸能、芸術、
人が生きて生活することに関しては、
何が最善であるかは、どう生きるか、どう生きたいか、に関わるわけで、
その最善は人それぞれ、なんでしょうか。


そう考えると、勝敗のない世界の最善手というのは、
おのれの満足でしょうか。
自分の欲する状態にピッタリくる、という感覚でしょうか。




連勝の止まった藤井四段へ「ひふみん」こと加藤一二三九段が
ツイッターで贈った激励のメッセージというのが含蓄があって良いですね。

 「棋士人生はまだまだこれから!
  いま始まったばかり。
  そして、勝負事には、
  勝ちか負けの二択しかない。
  だからこそ、
  つねにその先にあるものを見据えて
  観る人びとの魂を揺さぶる、
  後世に残る棋譜を紡いでいただけたらと願う。
  偉大なる後輩棋士たちの、
  長い長い棋士人生の前途を祝して。」


 「人生も、将棋も、
  勝負はつねに
  負けた地点からはじまる。」


ご自身の1324勝のうち90%は「名局」であり、
バッハやモーツァルトの「名曲」のように何百年たっても人々の感動を呼ぶ、
のだそうですよ。

本質は勝負の世界も芸術の世界も同じなんでしょうね。



最善手

将棋の中学生棋士藤井四段が、インタビューで、
学校の科目では、美術と音楽が嫌いだと答えていた。
将棋にはその局面局面で、必ずたった一つの最善手というものがあるのだけれど、
美術や音楽ではそれが無限だから苦手、嫌いなのだ、と言う。

ふーむ。
モンテッソーリで育ち、立体パズルで立体的思考を鍛え、
師匠を入門の日に負かし、
パソコン相手に日々鍛錬を積む天才棋士にも苦手があるんだー、と驚いた。

というか、美術や音楽を無限の最善手の連続だと捉える頭脳に驚く。

というか、将棋だってはじめの一手は無限の最善手なのだから、
その状態がずっと続くのが美術や音楽だと捉えるのか。
すごいな!


美術や音楽はいかようにもなる自由な世界だからか?


美術や音楽もホントは、たった一つの最善手の追求なんだけどね。


雑記

夢の中で、今はもうなくなった実家に行った。
家の前にあった狭い庭が畑になっていて、母がそこで笑っていた。

これは夢なんだとわかっていて、声をあげて自分が泣き出して、びっくりした。
すぐに起き上がって、座って考えても、
自分に何が起こって泣き出したのか、とっさにわからなかった。

「母が笑っている」ということで、胃の辺りがキュウッとする。
長く患って逝った母に、自分としてはできる限りやった、とは思うけれど、
母の最期が幸せであったのかはわからない。

長く同居を望んでいた最愛の娘である姉と、
ようやく同居生活が始まった、と思ったら、
姉がガンになって、あっという間に亡くなってしまった。
母は一人病院に生活するようになって、
やがて父が認知症になって同じ病棟に入った。
母の頭は最期までしっかりしていたけれど、父との意志の疎通はできたのだろうか。

力尽きるように、静かに母は逝ってしまった。


私も妹も、遠隔地でしかも子育て真っ最中で、身動きならない事も多く、
母を放り出したとは思わないけれど、最優先にしたわけでもない。
どうしようもなかった、とは思うけれど、
今、こんな風に自分が夢の中で泣く、とは思わなかった。



小学校時代の友だちが集まって、話題になったのは、
子どものこと、嫁さんへの配慮、以外に、親のこと、墓のこと、等々。
そういう年代なんだ、ということだ。


義理の兄が離婚と死別とで2回妻をなくし、
現在独り身で、身の回りの世話をする女性がいて、親戚は意見のしようもなく、
困っている。
「後妻業の女」と言っては失礼かもしれないけれど、
「どこから湧いてきたのかもわからない女」に「家」が乗っ取られるのではないか、
と親戚は危惧する。

「義理兄(にい)さん、一人は淋しいものね。」とは思いつつ、心穏やかにはいられない。


海辺の街にて

新幹線に乗って小学校時代の友人の家に出掛けた。
「ただ今富士山に一番近い所を走っております」などと車掌さんのアナウンスがあって、
おお、そうか、と写真を撮る。

富士山2
絵に描いたような富士山。山々は緑が綺麗だ。
いい季節。

8年前に好み通りに新築してからのべ1000人が訪れたという家にて、
出張寿司パフォーマンス。寿司屋の大将が駿河湾の生シラスやら、素揚げの桜えびやら、
冷凍でない鰹、鮪。
寿司パフォーマンス 磯自慢
(寿司屋の大将)

贅沢だあー。


観光地の着物

京都、金沢、浅草、この3カ所で、
私も、海外からの観光客がレンタル着物で闊歩している姿を目にした。
日本全国、他の観光地でもきっとレンタル着物屋さんが繁盛しているのだろう。

人目でわかるソレを着た方々はかなり多勢いて、観光地がその原色であふれ返っている。
皆さん自撮りをしたりして楽しそうだ。

アジア系の方が多いのは、
アジア系の旅行社がレンタル着物店と提携しているのかもしれない。
欧米人にはサイズ的に無理があるのか、欧米系の方が着ているのは、あまり多くはない。
でも、興味がないわけではなく、
部屋着やお土産にするために出来合いのものを買ったりする。

着ている人の言葉を聞くと、日本人だとわかってびっくりすることもある。
え、日本人がこれを着るのかなあ、という着物なので、驚いてしまうのだ。

どれも同じようなポリエステル地に原色の大きな和柄、
帯は半巾帯で飾り結びにしている。
浴衣のようなペラペラの色柄で、冬は寒そう、夏は暑そう。
私の目にはどうにもへんてこりんに見える。
本来の日本の色柄の良さからは程遠い、
似て非なるもの、に見えるのだ。

男性の場合は黒、紺、茶、臙脂、など濃い色のアンサンブルだから、
そんなにおかしくはない、でも、何と言うか、お正月の若旦那みたいだ。


最近は浴衣の柄も大きくなった。
子どもや成人式用の写真館のチェーン店でレンタルされる着物も柄が派手で大きい。

そんなにハッキリクッキリデッカくしなければ見えないわけでもないだろうに、
どうにも騒がしく落ち着かない色柄でまことに品がない、
とは思うけれど、わかりやすさ、と取っ付きやすさ、を求めるとこうなる、
ということなのだろうか・・・。

メモ7

日常的に毎日着物を着てその写真をUPしていた頃は
人に見られることが仕事であったから、
綺麗とか面白いとか珍しいとか、とにかくキャッチーであることが前提だった。

だから「許されるコスプレ」。
派手で目立つか、地味で粋か、どちらかをねらう。
人の目を引くのが大事。

ただ、それを続けると、自分がだんだん玄人(くろうと)になっていくのがわかった。
それはプロになることだから、本来は良い事のはずだけれど、
私にはそれが「卑しい事」に思えてきた。

計算の上に成り立つことが品のないことに思えてきたのだ。


簡単に言えば趣味が変わった、とも言える。
今はTPPO(タイム・プレイス・パーソン・オケージョン)に見合った、
奇をてらわなくても本当に普遍的に「良い」「好き」と思える着物を着たい。


Template Designed by DW99