品格

5月から頑張った長唄「勧進帳」が終わった。
一人で三味線も唄も完成。完璧とは程遠いけれど、とりあえず満足。
舞台一面総勢100人超で演奏すると鳥肌がたつほど感動する、超名曲!!



さて、秋に向けて次の曲は「喜三の庭」(君の庭)
安政6年、岡安喜三郎という人の弟子の新居の新築祝いに作られた曲。
一曲の中に三つの秋の情景が描かれる。

まず一つ目は、平家物語の「小督」(こごう)を題材にした秋。
高倉天皇の寵愛を受けた「小督」(こごう、と読む、女性の名前)は、
天皇の后の父平清盛に遠慮して嵯峨野に隠れ住む。
小督を忘れられない天皇の命を受けた源仲国が探しにくると、
小督の弾く箏の音が聞こえてくる。
笛の名手仲国は静かに笛を奏で、二人は「想夫恋」(そうふれん)を合奏する。

小督


二つ目はそれから700年のちの江戸の吉原。
女たちが秋の野花のように美しく咲き乱れる遊郭。
三味線で清掻(すががき、開店合図の三味線)を弾く遊女の元に、男たちがやってくる。

見世清掻き


三つ目は新居祝いに豊年の秋の実りを囃して歌おう、というもの。


この曲の演奏にあたって、心すべきは「品格」なのだという。
「小督」という曲は能にも筝曲にもあり、
「喜三の庭」には能の詞が使われ、筝曲の手が入っている。
小督は愛する天皇を思って仲国と「想夫恋」を合奏する。
色っぽいことになりそうでならない。

合奏するだけで充分情愛があふれ、
格子越しに女を見るだけで充分色香が漂う。
あるかもしれないし、ないかもしれない。


昨今、文春砲なるものが数々の芸能人を乱射しまくっている。
人の色恋など探って白日の下に晒して何が楽しいのだろう?
ただ、自由に恋愛のできる人種が羨ましいだけなんじゃないか・・と思ってしまう。

秘してこそ花。
品格あってこその、恋。


何もかも表向きだけは正しくないといけない平成の世の中では、
昭和歌謡も歌えません。



長唄のライブ

那胡の会2 那胡の会6

簡易ではございますが、どうぞ。         可愛いお運びさんです。



那胡の会4

演奏は江戸前でございます。

 長唄「黎明」
 
 むらさきに 紅ぼかす東雲の 空さきがけて
 八紘に高く射放つ あまつゆみ
 その金色の征矢にこそ 恵み尊きかづけもの
 永遠の望みをもたらして 夜の間の闇に沈みけん
 もののあいろもほがらかに 有情無情の別ちなく 
 若き命に よみがえる その喜びの声々は 
 天と地とに 満ち満ちて 
 風にも通へ颯颯と 水にも通へ滔々と
 合わせ奏づる 曙の歌
 



那胡の会5

ハオーーッ!! 笛と太鼓「獅子」


長唄の会

連休の初日は長唄の会のための下浚い(したさらい)、最終日に会の本番があって、
連休はそれで終わった。

毎回思うが、音楽というものは時間の芸能で、
始まったら止められない。
だれがどこで間違おうが、何が起ころうが、
音が鳴り止むまでは、全てを飲み込んで流れてゆくしかないのだ。
やり直しはきかない。
できなくてもできたつもり、事が起こってもなかったことにして、
最終章を目指す。


必ず、思いもよらない、今まで一回も間違えた事のない所でトチル。
何でだろう。余計な事が頭をよぎるからなんだろうけれど、
それを少なくしていく、あるいはうまくごまかす術は、
とにかく、場慣れ、回数、経験で覚えるしかない。

歌舞伎も文楽も、本職の方々は毎日同じ演奏を20日以上も繰り返しているのだから、
それは上手くなるよね。
プロでも何ヶ月か稽古して一回本番やって終わり、ってこともあるけれどね。
色々な公演があったり、踊りの地方(じかた)で呼ばれたり、
同じ曲を何回も演奏できるのは羨ましい。
素人は半年稽古して、それが本番の20分前後で終わってしまうのだから寂しい。

今回は長唄の師匠のそのまた師匠のお祝いの会に出させていただいたので、
華やいで、明るくおめでたく能天気に「元禄花見踊(げんろくはなみおどり)」
唄い終わって幕が閉じて、助演のえらい先生に大きな笑顔で
「お花が咲きました!」
と言っていただいて、その表現にとっても和む。

元禄花見踊2
(こんな感じかしら)

次は「勧進帳」に挑戦。
元々は能の謡曲(安宅 あたか)から作られた歌舞伎の曲で、
義経、弁慶らが奥州へ逃れる途中、北陸の安宅の関を山伏姿で通り抜けようとするのを
関守富樫に呼び止められ、疑いを晴らすために、弁慶がありもしない「勧進帳」を
それらしく読み上げてみたり、部下の強力姿に化けた義経を打擲(ちょうちゃく、たたくこと)
してみたりして、難を逃れる、という話しだ。

勧進帳
(ご存知、あの、やたら大げさな芝居です)

歌舞伎でもお馴染みの語りものの見本のような基本のような曲。
とにかく憧れの曲で、三味線も唄も派手でかっこよくて、
演奏していても、楽しくて気持ちがいい。

やりたい曲がいっぱいありすぎて、3ヶ月から半年に一曲だと、
これからの一生で足りるかしら?

長唄は、もっと早く出会いたかったことの一つだ。

江戸の情緒を今に残す・・

江戸の水運の要所、隅田川、厩橋辺り
船がすごい勢いで近づいて来た。


IMG_3176あ

屋形船も盛況のようで結構なことだ。
長唄の師匠が出る演奏会へと、厩橋を渡る。


今日の演奏会はこじんまりと、二挺一枚(三味線二人、唄一人)。
演目は「越後獅子」と「京鹿子娘道成寺」

曲の間に二挺の三味線で「合方」といわれる三味線の聞かせどころのみの演奏があった。
佃の合方、虫の合方、砧の合方、琴の合方。隅田川の情景や江戸の情緒を描く。
一人が本手を弾き、もう一人は竿にかせ(ギターでいうところのカポタストのようなもの)
をかけて、本手より高い音で違う旋律を弾く。
不協和音をわざとぶつけるようなところもある。
早弾きが上手くからみあうのがスリリング、三味線弾きの凄技の見せ所である。


さて、トークコーナーで「藤枝祭り」で山車の上で三味線を弾いて来たという報告があった。
全国でも静岡県の藤枝、島田、掛川にのみ残る、
現在では珍しい生の長唄演奏に会わせた地踊りの祭りで、特に「藤枝祭り」は大規模で、
この期間には東京の長唄界はごっそり藤枝へ行ってしまうそうだ。
山車の上の長唄お囃子のフルメンバーの演奏で、地元の方々が踊る。
すごく贅沢な祭りだけれど、あまり宣伝もしていないのだという。

そこに参加した三味線弾きさんが「カンガルー」と「ヤギ」を持っていって弾いてみたそうだ。
外で弾く分には音色も遜色なくむしろ強い音が出て小雨でも破れる事もなかったとのこと。
弦も3本のうち一番細い三の糸にナイロン弦を使ってみたが、のびることもなく、
朝の調弦のまま一日演奏できた、とのこと。
絹糸はどんどん伸びてしまうので、どんどん音程が狂ってしまうから、
それを直しながら弾くのは技が必要なのだ。

室内での演奏会には慣れていることもあって従来のネコの皮に絹の糸で演奏したけれど、
カンガルーやヤギの時代になってもやっていけそうだ、とのことだった。

時代の変化に抗うことはできない、のだろう。


唄の師匠から一言。
最近電車の車掌さんのアナウンスを聞いていると、鼻濁音がつかえない人が多い、
長唄は江戸の文化で、江戸は鼻濁音を使う文化なので、
時代は変わっても鼻濁音は残ってほしい・・・、と。


発音でも時代に抗うことはできない・・・のか?

長唄 二人椀久

ニ人椀久

「大阪の豪商椀屋久兵衛が廓の傾城松山太夫に心奪われるが、座敷牢に幽閉されて発狂する。
 松山恋しさにさまよい歩いて、松山との恋の道行きを夢みるも、それが幻と知って泣き崩れる。」

DSC07291.jpg



「廓々は我家なれば
 遣手禿を一緒に連れ立ち
 急ぐべし
 遊び嬉しき 馴染へ通う
 恋に焦がれて
 ちゃちゃと  ちゃとちゃと
 ちゃと ゆこたれ
 可愛がったり がられてみたり
 無理な口舌も 遊びの品よく
 彼方へ云いぬけ 此方へ云いぬけ
 裾にもつれて
 じゃらくら じゃらくら
 じゃらくら じゃらくら
 悪じゃれの
 花も実もある しこなしは
 一重 二重や三重の帯
 縁のいとぞ 候かしく」

                              (2013.6.24)

つもりちがい


自分だけで弾いていると、どんどん勝手な間で自分の都合のいいように、
自分が弾きやすいように弾いてしまう。
楽譜があっても、勝手な解釈をしてしまう。


長唄の場合、実際の演奏は一人ではなく三味線も何丁か、唄も何枚(何人)か、
そこにお囃子が加わり、踊りまで入るかもしれない。
そんな時、一人でも「つもりちがい」の人がいたら、
歌い手は息吸う所で息吸えず、踊り手は右左というところで、右右となってコケルかもしれない。

全員の心づもりがピタッとあったら気持ちがいいし、
演奏家はそれで「いい演奏でしたね」となる。




だから何であれ、一人で演奏するものでない限り、
心得違いの「つもりちがい」からは決していい演奏は生まれない。

お稽古のこと

理解する、再現する、表現する、
という過程を経て確実に曲を自分のものにしていく、
そうすることで、今までモヤモヤしていたものが、
頭の中でスッキリとした像を結ぶ、

というのは、勉強やお稽古ごとを続ける喜びにつながる、
自分の成長を実感できる、

これが三味線の先生を代えて、実感できたことです。
自分の行き詰まっていたところが明らかになって納得できた
そんな感じです。


やっぱり私も西洋的音楽教育に慣らされてしまった現代人だなあ、
とも思います。

音階というものを頼りに音の位置をさぐる、
小節という区分を手だてとして、拍子をとる、
そういう風にしか、音楽が捉えられない。

また、自分の進歩、進捗状況を目で見える形でとらえないと、
やった気にならない、

この2点はもう、なしではいられない、ということです。


大昔の先人の録音を聞くと、音程はメチャクチャ、間は何だかへんてこりん、
でも、雰囲気はある、なんてものも多いのです。
確かに今の方が全体のレベルは上がっているのかもしれません。

が、現代人の耳は平均律しか聞けなくて、そこからずれると雑音にしか聞こえない、
「間」という観念もない、それもあるでしょう。

くずれた「間」のよさなんてわかる人は少ないし、
それが本当に崩れてしまっているのか、崩れているように聞こえるだけで崩れていないのか、
そこまでわかる人も少ないでしょう。


先人の名演は遠くなりにけり、です。


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