歓喜について

ベートーヴェン 交響曲第九番 
第四楽章 の合唱部分「歓喜に寄す」はF・シラーの原詩に曲をつけている。
合唱部分は、
Freude! 歓喜よ!  で始まり、
Freude, schöner Götterfunken!  歓喜よ、神のような美しい輝きよ! で終わる。

全能の神の存在が現実となる予感に畏れおののき、
喜びに打ち震える。
幾百万の人々と抱き合い、くちづけを交わして、
その喜びを分かち合う。

それがよくわからないドイツ語で語られ、なんだか感情と乖離したままで歌になる。
Freude!が上手く歌えないと「万歳!」と言わされる。
Seid umschlungen, Millionen!(抱き合おう、百万の人々よ)が良くないと
「隣の人と肩を組んで、目を見て」と言われる。
音の渦に圧倒されて気持ちは高揚しても、言葉と感情がうまく馴染まないのだ。

幾百万の人々と喜びを分かち合いたい、と思う状況を考えるようにと言われて、
思いつくか?
誰彼と無く、心の底から抱き合いたい喜びを分かち合いたいようなことが、
この世にあるか?

自分が難民で、安全な土地に逃げ延びることができたら、そう思うだろうか。
今の日本ではサッカーや野球のサポーターが勝利の歓喜に酔いしれる時くらいしか、
思いつかない。
日本に暮らす私には日々の生活の外の事柄だ。




「マクベス」(Macbeth)は、ジュゼッペ・ヴェルディがウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲
「マクベス」に基づいて作曲した全4幕からなるオペラである。
4幕一場ではマクベスに王を殺され、難民となったスコットランドの人々が
「虐げられた祖国よ」と歌う。(Patria Oppressa)
これを歌った時は、凍った泥道を足を引きずって歩く、流浪の民になれ、と言われた。
流浪の民というとこの歌を思い出し、歓喜というと、彼らの歓喜を思い浮かべる。



Verdi: Macbeth - Atto IV - "Patria Oppressa", Coro

Coral Lírico de minas Gerais - Oquestra Filarmônica de Minas Gerais - Fabio Costa, conductor - Belo Horizonte, June 2009






音の力  文字の力

ボブ・ディランがノーベル文学賞だって!!!

これはネタか悪い冗談か。
ニュースを見て笑ってしまった。


彼は授賞式に姿を現すのだろうか?
どんな顔で受賞するのだろうか?
その姿の方がよっぽど見物だと思う。

ノーベル賞はどの賞もその人間の何十年も前の功績に対して与えられるし、
私は別に彼に肩入れする年代でもないし、かつて彼がどんな歌詞を歌ったか、
とかどうでもいい。
それがたまたま現在の社会情勢に対する主義主張のようにとられてしまったら、
歌っていた本人が気の毒な気がする。


2年くらい前だったか、お台場のZepp DiverCityでのコンサートに行った。
一昔前のグジュグジュした感じではなく、キーボードを弾いて歌って、
すごく音楽をしていた。
アンコールでファンサービス的に「見張塔からずっと」と「風に吹かれて」をやったけれど、
本編は新作中心で、自分が進化や変化をしつつある現役のミュージシャンであることを
見て欲しいのだろうと思った。


ボブ・ディランの歌詞が歌という音なしで多くの人の元に届いたとは思えない。
彼は言葉を含めたその音をこそ届けたかったのだろうと思えてならない。


文学賞ならば、純粋に文字でやられた!と思える賞であってほしい。


私は満ち足りています

以前、NHKのEテレで英国王立音楽院の教授による
特別講義のシリーズが放送された。

毎回一人ずつ西洋の著名作曲家をとりあげて、それぞれが「何の為に作曲をしたのか」
というテーマを時代の変遷に沿って解説していた。

ざっとメモってみたい。

バッハは教会の説教の度ごとにその内容を、人々に理解しやすいように作曲した。
それが仕事だったからだ。バッハは教会の為に、神の為に作曲した。

モーツァルトは貴族に好かれるように作曲した。それが彼の仕事だったから。
仕事の為に、(自分へではなく)社会に向けて作曲をした。

ベートーベンは自分の為に作曲をした。
作曲をすることによって、人は悩んでも良いのだと、人間の弱さや悩む姿を肯定した。
他人を楽しませる為に演奏するのではなく、自分自身の為に、
自分自身の答えを見つける為に演奏するということを肯定した。
それは音楽や作曲や演奏の私物化ではあるけれど、ベートーベンは、それがどうした、
と言わんばかりに力強く肯定する。
これこそが個人の為の音楽である。

ショパンに至っては、自分の不安は不安のままに、
未解決は未解決のままに提示する。


西洋音楽においては、人々は時代とともに自我を肯定し、
もがき苦しむ様をそのままに受け入れようとしてきた、
ということだ。

年末に歌うベートーベンの第九では、第一楽章の不穏な幕開けから、
ああでもないこうでもないと、あたまを抱えてのたうち回って、
悩み苦しむ人々の前に、私たちを救う誰か?何者か?が現れる。
その予兆に私たちは身を震わせ、畏れを抱き、打ち震える。
ひたひたと忍び寄るそのものが、やがて私たちに本物の歓喜をもたらす。
抱き合おう!幾百万の人々よ。全世界にこのくちづけを!

そう心の底からその存在に感応して声を発する時、
その時こそ、歓喜に溢れるカタルシスをみるのだろう、
私も幾ばくかは、その歓喜の端っこに触れることができることを期待する。




件のNHKの番組を一緒に見ていた息子が
「自分が死ぬ時に、これを流してくれたらいいな」と言った曲は、
Johann Sebastian Bach. Ich habe genug, BWV 82
バッハのカンタータ「私は満ち足りています」だ。
年老いた男が自分の死に際して、私は満ち足りて、主のみ元に参ります、と
穏やかに死を受け入れ、神に祈りを捧げる、という歌だ。

もう、自分の死に際しては、何の悩みもなく、心穏やかにみまかりたい。
私もそう思う。

このはじめのカンタータである。



I have enough!
I have held the Savior,
the hope of the pious,
in the warm embrace of my arms.
I have enough!

I have gazed on Him,
My faith has pressed Jesus to my heart,
Now I wish this very day
to depart from here with joy.
I have enough!


江戸の情緒を今に残す・・

江戸の水運の要所、隅田川、厩橋辺り
船がすごい勢いで近づいて来た。


IMG_3176あ

屋形船も盛況のようで結構なことだ。
長唄の師匠が出る演奏会へと、厩橋を渡る。


今日の演奏会はこじんまりと、二挺一枚(三味線二人、唄一人)。
演目は「越後獅子」と「京鹿子娘道成寺」

曲の間に二挺の三味線で「合方」といわれる三味線の聞かせどころのみの演奏があった。
佃の合方、虫の合方、砧の合方、琴の合方。隅田川の情景や江戸の情緒を描く。
一人が本手を弾き、もう一人は竿にかせ(ギターでいうところのカポタストのようなもの)
をかけて、本手より高い音で違う旋律を弾く。
不協和音をわざとぶつけるようなところもある。
早弾きが上手くからみあうのがスリリング、三味線弾きの凄技の見せ所である。


さて、トークコーナーで「藤枝祭り」で山車の上で三味線を弾いて来たという報告があった。
全国でも静岡県の藤枝、島田、掛川にのみ残る、
現在では珍しい生の長唄演奏に会わせた地踊りの祭りで、特に「藤枝祭り」は大規模で、
この期間には東京の長唄界はごっそり藤枝へ行ってしまうそうだ。
山車の上の長唄お囃子のフルメンバーの演奏で、地元の方々が踊る。
すごく贅沢な祭りだけれど、あまり宣伝もしていないのだという。

そこに参加した三味線弾きさんが「カンガルー」と「ヤギ」を持っていって弾いてみたそうだ。
外で弾く分には音色も遜色なくむしろ強い音が出て小雨でも破れる事もなかったとのこと。
弦も3本のうち一番細い三の糸にナイロン弦を使ってみたが、のびることもなく、
朝の調弦のまま一日演奏できた、とのこと。
絹糸はどんどん伸びてしまうので、どんどん音程が狂ってしまうから、
それを直しながら弾くのは技が必要なのだ。

室内での演奏会には慣れていることもあって従来のネコの皮に絹の糸で演奏したけれど、
カンガルーやヤギの時代になってもやっていけそうだ、とのことだった。

時代の変化に抗うことはできない、のだろう。


唄の師匠から一言。
最近電車の車掌さんのアナウンスを聞いていると、鼻濁音がつかえない人が多い、
長唄は江戸の文化で、江戸は鼻濁音を使う文化なので、
時代は変わっても鼻濁音は残ってほしい・・・、と。


発音でも時代に抗うことはできない・・・のか?

和楽器

最近和楽器を使ったバンドを多く目にする。

例えば、「和楽器バンド」は「千本桜」がヒットしたからテレビの露出も多い。
尺八・筝・津軽三味線・和太鼓の和楽器に、ギター・ベース・ドラムの洋楽器を加え、
詩吟の師範がボーカルをつとめる8人編成のロックバンドだ。
「龍馬四重奏」。これはヴァイオリン、津軽三味線、篠笛、小鼓という編成。

等々。

彼らが共通して口にするのが2020年東京オリンピックで演奏するという目標。
きっとオリンピックの舞台で和楽器が演奏されるだろうと思う。


それはそれでいい。
日本には和楽器という素晴らしいものがあるし、
世界共通のロックのリズムにも会わせることができる。
世界へのインパクト、発信力はすごいだろうと思う。

いいんですよ、それで。少しでも和に目を向けてもらえれば。
と、伝統音楽の奏者もそうは言う。

ただ、三味線の代表が津軽三味線とは思えないし、
和と洋のコラボも悪くはないけれど、着物地で洋服を作るような気持ち悪さがあるし・・。
なんだか,納得しかねる。


長唄、河東節、筝曲、常磐津、地歌、清元、宮薗節、
新内、義太夫、尺八、一中節、琵琶・・・・・などなど、
実は日本にはたくさんの伝統音楽がある。
日本人なら伝統音楽にも少し興味を持って一度は本物を聞いてもらいたい。

日本人としての自分の内側が少しずつわかってくる気がするのだけれど・・。

三味線

長唄の細棹三味線を弾くようになって丸9年。
義太夫を4年前に始めて、昨年から義太夫の太棹三味線も弾くようになった。

このたび、ようやく自分の義太夫三味線を手に入れることができた。
嬉しい。

ずっしりとした重み、太い竿の感触、厚い皮から跳ね返る音圧。
細棹よりも余計に生々しく「生きている」という感じがする。
木も生きているし、張った皮も生きているし、絹糸も生きている。
命を弾いていて、私色に音が変わっていく感じがする。


三味線には昔からネコかイヌの皮を張る。
ネコは「よつ」イヌは「犬皮」(ケンピ)と言ったりする。
ネコの方が薄くてピンと張った音がするので高級品で値が高い。
イヌは破れにくく丈夫で、義太夫三味線はほとんどイヌだと思う。


これが最近は入手困難になってきて、邦楽界では大問題になっている。
もう既に、国内のものなどなく、輸入に頼っていたのだけれど、
それらを輸出していた国でも動物愛護の観点から極度の品薄だ。
皮は湿度によって破れるから消耗品、
よつは裏表両面張り替えると6万から10万はする。
それも長唄の師匠に言わせると、在庫が1年分くらいだとか。
歌舞伎に乗っている人たちは月に20日以上毎日何時間も弾いている。
皮が破れて張り替えて、高くてたまらない上に、材料すらなくなったら、
飯の食い上げである。

カンガルー、ヤギ、合成繊維、等々、代替品を試してはいる。
早晩、イヌネコの皮は姿を消すのだろう。


イヌネコの皮なんて、
愛犬家、愛猫家にとっては頭から湯気が出るほど残酷に聞こえるのだろうが、
魚、豚、肉牛、くじら、毎日いただく命と変わりはないと思うのだけれど。

生き物だからこそ、命の音がする。
命の音だから、大切にありがたく弾いているのだけれど。

以前、宗教上の理由で菜食主義だという人に、
なぜ野菜は食べてもいいのかと尋ねたことがある。
植物は霊性が低いから食べてもいいのだ、と言われた。

命は一つだと思うのだけれど・・。

Template Designed by DW99