問題はどこにあるのだ?

人前で「ち◯ぽ」なんて連呼して、なんて品がないんだ!
私だってそう思う。
ましてや人様の寝室とパンツの中なんか、どうだっていいのだ。

寝室とパンツの中の事は秘すれば花、
暗闇でドッキリ、暗黙の了解、黙して語らず。

芝居でも、具体的事象に突っ込んだ色っぽい場面になると、
場内の空気が緊張して、演ずる方も見ている方も、どうも落ち着かない。
で、演者が妙に緊張してトチったりする。台無しである。

文学講座の講師をしているあるエンターテイメント作家は、
自分の母親が生きているうちは濡れ場は書かない、と決めているのだそうだ。


でもだからって、寝室とパンツの中以外の全てを人前にさらすのは、
同じように恥ずかしいとは思わないのか?

私たちの人生も文化も元を正せば全てそこから始まっている。
本当はお下劣でも何でもないのに、闇に追いやって見ないようにしているのは、
何故なんだろう、とは思わないのか?

性の問題には必ず、根の深い心の問題が潜んでいる、とは思わないのか?


性から自由にはなれないのに、その問題を指摘されると、
過剰に反応するのはおかしくないか?

満たされていないのは、カラダなのか、ココロなのか。
欲しているのは、カラダなのか、ココロなのか。
傷ついているのは、カラダなのか、ココロなのか。

満たされているのは、カラダなのか、ココロなのか。


書くって何?

「蛇にピアス」を書いた金原ひとみは父の金原瑞人のゼミに通って文学修行をしたのだが、
金原瑞人はかねてから学生に、小説を書くにあたって、
「親が恥ずかしくて外を歩けなくなるようなものを書け」と教えていたのだそうだ。

その教え通り、「蛇にピアス」はなかなか衝撃的な小説で、芥川賞も取り、
おかげで親も有名になったのだから、これで良かったってことなのだろう。


前回の記事でも書いたが、井上光晴の長女荒野が
「やはり作家という、何かものを創る人間はやはりどこか変なんですよ」と言った。
それは小説家は、家族が外を歩けなくなるような題材を求めている、作っている、
ということなんだろう。
そういう意味では、何とも因果な商売だ。
そんな風に人と違う特異点を探さなくても、
人それぞれにとっても変なのに、と私は思うが、どうなんだろう。

予約していた「夫のち◯ぽがはいらない」こだま著、が届いた。
ものの数時間で読了。
文学としては、どーなんだろー?だけれど、
記録としてはなかなかのものだ。
ち◯ぽが入らないばかりか、早々に閉経して、
自己免疫疾患に陥って、子どもを生まないことで実母とのいさかいがあって、
教師としての悩みあり、夫の鬱の悩み、夫の風俗通いの悩み、
もう、お悩みのデパートやあ!である。(宝石箱やあ!はどうなの?ははは)

これこそ、書いたら外を歩けないでしょう。
夫は風俗通いは妻に知られていないと思っているし、
こんなこと小説にされたとは知らないだろうし、
それでもこれだけ話題になったら、自分のことだと気が付くわねえ。
どうなるんだろう。

書評に、「素晴らしい純愛ですね!」とかあったけれど、
風俗に支えられる純愛って何?
まあ、素人さん泣かせるよりましだけれど。

書評に「最後のページの最後の2行がいい」とあったから期待していたけれど、
それは、どうってことなかった。


本当、書くって何?

作家を父に持つということ

井上荒野×齋藤由香×井上都「父と私ーー井上光晴、北杜夫、井上ひさし」
というトークイベントに行ってきた。
三人の女性著述家それぞれには特に興味はないけれど、
作家を父に持つ著述家、というくくりそのものに惹かれて出かけた。


それぞれが作家を父にもった「ひどい」けれども「楽しい」特異な経験を語った。

トークの中でも引き合いに出されていたが、
阿川久之氏を父に持つ阿川佐和子氏がよくテレビで語る
「作家という特異な職業の変な人を父にもつ変な生活」と同じであった。

ひどい体験ではあったけれど、それはまた楽しい体験でもあり、
そういう父を誇りに思い、その関係を書くことで、
体験した時にはわからなかったことが腑に落ちていく。

井上都氏は父にまつわるエッセイを書いたことで、母親から
「あんたこれじゃ、思い出屋になっちゃうじゃないの」と非難されたそうだが、
書くことで、父との未消化の関係性を整理できるから、書くのはいいことなんだ、
と他の二人に励まされていた。

「『死の棘』の家で起こっていたこと」というトークイベントで
島尾敏雄、ミホ夫妻の長男島尾伸三氏が語った苦悩と変わらない。
ただ、伸三氏の「認めないけれど引き受けよう」という関わり方に比べて、
今回の三人は娘であるということからか、
より感情としては愛情をもって認めているように思った。


荒野氏は「やはり作家という、何かものを創る人間はやはりどこか変なんですよ」
と変な人間に付き合う変な家族であったことを特に強調していたけれど、
そうだろうか。
世の中の人は(自分では書かないだけで)ことごとく変である、と思う私は、
強烈に違和感を感じた。




お三方が語った父との特異な体験。

井上光晴氏の長女荒野氏は、
小説に書く参考にしたいからと、飼っているヤドカリを焼いていいかと聞かれたり、
父には外に女性がいたけれど、自分の母親はそれを知りながら平気でいた、
とか。

北杜夫氏の長女齋藤由香氏は、
母親の影響で「ごきげんよう」と言い合うハイソな家庭が、
父親が躁病になって株で財産をなくして破産、父と母の大げんかでひっくり返った、
とか。

井上ひさし氏の長女都氏はこまつ座を手伝うようになって父親との関係が悪くなり、
亡くなる9ヶ月前程からは会えなくなり、亡くなった後、
手帳に、自分のことを「人間のクズ」と書かれていた、
とか。


パーツ  

人はパーツでもその人となりの想像がつく。
手の置き方、指の具合、箸の持ち方。
手しか知らなくても、その手が何かを語っているように思えてくる。

きっと隠しても隠せない「その人」が出てしまうのだろう。
手を見て、「あ、あなた」とわかる、気がする。


母が清瀬にある結核病院に入院していた時、
病棟内で働く看護師はいつも大きなマスクをしていた。
父とお見舞いに行く度に、お世話になっている看護師さんに会うのだけれど、
優しいその顔に心が和んだ。

ようやく退院できることになって、
はじめて、病棟の外でマスク無しの彼女に会った。

その口が彼女にいだいていたイメージに合わなくて、
激しく違和感を感じた。


「顔そのもの」が「その人」なのだろうか。

パーツで見知った人は、全体を見ない方がいいのだろうか。

「顔」を見たいというのは、
その人を知りたい時に、とても切実な願望なのだけれど。

全身を知っているよりは、パーツだけ知っている方が、
「その人」を強く意識するのはなぜだろう。




レクイエム



3月にフォーレのレクイエムを歌う。

レクイエムとはキリスト教における、死者のためのミサ典礼のこと。
またその式文を歌う音楽(ミサの一種)のこと。
レクイエムの歌詞(典礼文)の冒頭は
「永遠の安息(レクイエム)を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らしたまえ」
と、死者の救済を神へ祈るという内容になっている。

フォーレは1845年生まれのフランスの作曲家であり、
聖マドレーヌ聖堂のオルガニスト、パリ音楽院作曲科の教授を歴任した。

司祭から「斬新すぎる」と叱責されたというこの曲について、
フォーレはこう言っている。
 「私のレクイエム……は、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、
  なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます。
  しかし、私には、死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、
  むしろ永遠の至福の喜びに満ちた開放感に他なりません」
 
 「私が宗教的幻想として抱いたものは、すべてレクイエムの中に込めました。
  それに、このレクイエムですら、徹頭徹尾、
  人間的な感情によって支配されているのです。
  つまり、それは永遠的安らぎに対する信頼感です」


ゆったり流れる調性に身を委ねると、何とも言えない安心感と
幸福感に包まれる。
こういう歌が歌えることを幸せだと思う。


話しの中の女

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ここで語られる物語は常に過去のこと。
全て噓の話しなのに、語りながら流す涙に、
困惑しながらなんだか、イヤではなかった。

考えの足りない馬鹿な男に、
雑巾みたいに身を押し揉んで意見する。
浅ましい気にならんした、こうは誰がした、わしがした。
みんなわしから起こった事、
堪忍してたも、こらえてたも。
そう言って泣くのよ。

もう後は行く所まで行って、
身を捨てる以外ないという女は、
泣くしかない。

話しの中の女はいつもそうやって泣いてばかりいる。
所体崩して殿御のこと、
逢いたい見たいとしどもなき、
母を持ったがそなたが因果、
庭に喰い付き伏し転び流す涙は春雨に雪解け乱すばかりなり。

くいー、くいーと歯を喰い縛って泣くのよ。

いやいや、いろんなことが引っからまってね、そんな風になっちまったんだよ、
なんて言ってくれる人は出てきやしない。
話しの中の女はそうやって都合良く、転がっていくんだよ。


お前は誰だ

「君の名は。」の新海誠監督が作品への批判に対して
「批判するならヒットするものを撮ってみろ」
と豪語している記事を読んで、そう言うなら映画を見てみよう、という気になって、
見てきた。

売れる要素ぶち込みの、突っ込みどころ満載の、軽い作品だという「批判」
は的外れではないけれど、
面白くないわけではない、というのが感想かな。(回りくどいな、笑)


さて、作品の出来はともかく、
顔も名前もどこの誰かもわからずに、自分は誰かを探しているのかもしれない、
と思うのはどんな気分だろう。

目の前の誰かがその誰かであるという確証はどうしたら得られるのだろう。
誰かが誰かであるというのは、何をもってそう言いきれるのか。

顔?顔がわかればその人間を判別できる。その人間と特定できる。
そうだろうか?
顔さえ移植できる、というのに。

脳?心は脳にあるのか。脳さえあれば、その人間と特定できるのか。
脳を移植された胴体は脳の人格のものなのか?

魂?魂と呼ぶものを一人一人が持っているとして、
私たちはそれに感応する日常など送っているのだろうか。

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