私のカケラ

大学生の時、デザイン学校の夜学にダブルスクールで通った。
そのデザイン学校の夜間コース開設第一期生だったので、
学校側も、どんな人間を集めたらいいのかわからなかったと見えて、
結果、高校の新卒生から、私のようなダブルスクール組や、
すでにデザイナーとして活躍している人、カメラマン、工芸家、絵描き、
役者、ただのアルバイター、等々の雑多な人間が集まって、
毎日夜の渋谷で飲んでばかりいたけれど、それなりに面白い日々だった。


その頃の飲み仲間が久しぶりに渋谷で集まるというので、用事の後合流した。
飲み会は4時から始まったのだ。
今や沼津のエスニック料理屋のオーナーシェフにおさまっているおじさんが、
乗車する渋谷発のバスの時間に間に合うように、そんな時間開始になったそうで、
笑った。


きゃあ、久しぶりー!
白髪になったり、シワがふえたりしても、もともと仕事をもっていたおじさんたちは、
あまり変わらない。
私は、卒業以来何十年も会わなかった一人の女性の顔を見るなり、
「あーーーーー、ゴミ袋に立体を入れて来たヒトーーーーー!」
と思わず叫んでしまった。


そうそう、昼間会社勤めをしていた彼女は、
立体を作るという課題の作品を満員電車でつぶされたくないからと、
ごみ袋に空気を入れて大きくふくらませて学校に持って来たのだ。
電車の中で「それは何ですか?」と聞かれて、「立体!」と答えたそうで、
私はそれを強烈に記憶していた。

彼女は才能も確かだったけれど、満員電車に毅然として大きなゴミ袋を持ち込む、
その気丈さに関心したのだった。


ところが、当の彼女はそんなこと覚えていないという。


優等生の彼女に比べて、デザインの授業自体はいい加減に受けていた私が
みんなに残した強烈な印象は、
学園祭でファッション科の子たちが主催したファッションショーに出て、
飲み過ぎていて、踊り過ぎてコケタことらしい。


やだー、
ヒトの記憶の中には、自分が思いもよらない自分のカケラが刷り込まれているんだ、
色々なヒトの記憶の中の色々な私のカケラを書き集めたら、
プリズムのように、キラキラと、いろいろな私が見え隠れするんだろう、


と、そう思ったら、不思議な心持ちになった。




大きな声で歌いましょう

世の中には「第九」を歌いたい人がたくさんいるのですね。

第九1


で、その迷える子羊たち、というか、さまよえる流浪の民を救わん、と、
手を差し伸べる先生方もたくさんいて、というか、それがお仕事なのでしょうが、
なんとか、合唱としての体を成すようにと、一生懸命にご指導下さいます。

その先生方も、実はご自分も声の出し方で試行錯誤されてきたわけで、
そしてそれを、どのように伝えたら伝わるかで、苦心していらしたのですね。

皆さん、ご指導がユニークです。


大きいホールで最後列まで届くような声というのは、
とにかく息を一杯吸って、息を一杯吐く、それに尽きる。

まず鼻の穴を目一杯広げます。
で、その鼻の穴から思いっきり、ソーメンをすするっ!
躊躇しない!一気にすする!
そうしたらそれを、自分がマーライオンになったつもりで、一気に吐き出す!
はいっ!ドーーーーーーーーーーーーッ!!!


それを何回もやります。


女声、とくにソプラノはいかに高音を美しくかつ大きな声で遠くまで届けるかが大事。
特に、「第九」はマジ?と思うくらいの高音で。


声をただ前に出すのではなく、
お腹を使って何メートルか先にいる人にボールを投げるように。
それをどんどん遠くまで放るように出しましょう。
というのは、わかりやすい指導です。

声は前に出そうとするとカラダに力が入ってしまいます、
もっと楽に出すには、自分の口の中に大きなホールをイメージして下さい。
のどにおおきな反響板があります、そこに、反響させて、前に出すのです、
はい!楽に、反響させて!アーーーーーーーーーッ!
というのも、まだイメージしやすい指導です。


で、メゾソプラノから苦労してソプラノに転向したという先生が、
苦労して編み出した秘伝を女性だけに内緒で教えて下さいました。

アンテナで高音をキャッチするのですっ!
まず、頭の上にアンテナを立てます!
(100名近い女性が全員頭の上に手でアンテナをはやします)
で、それで周囲の電波を捕らえて下さい。
(みんな手の平を左右に向けて電波を探します)
そして、正面からきた電波を捕らえます、ハイッ!
(先生と一緒に手の平を前に倒します、キャッチ!)
ほら、高音が出たでしょう。いいですか、これ、内緒ですからね。



そうなんです、とにかく美しい高い声さえ出せれば無敵なのです。




演奏する、ということ 2

前回の記事に
「芸術にはグローバルスタンダードはありえない、ということではないか」
というコメントをいただいたのだけれど、
うーーん、そうなのかもしれないけれど、

うーーーん、早い話し、おじさんに勝手な演奏されると私が困るのです。
私がプロで、伴奏をするように雇われているのなら、文句は言いません。
でも、そうじゃないし・・。

シチめんどくさく言うと、
「共通認識を持てない演奏、というものは芸術以前の問題なのではないか」
と思うのです。

楽譜とか、記号とか、言語とかを操る私たちは、そういう共通言語によって会話をし、
共通認識を持つことによって、同じ時間を共有し、演奏をすることができます。

音楽はすごーく言語に似ていて、
楽譜は頭の中に浮かぶ事象を記号化できる優れものです。
楽譜にも、洋楽の譜面あり、邦楽の譜面にも様々なものがあり、
世界中の音楽にはそれぞれ異なった面白い記譜方法がある、
それは言語の違いと似ていて、言葉や発音は違っても、
何を意味しているのかは、だれでも共通理解できるはずなのだ。

そういうのって、面白いと思いませんか?

だから、譜面の読み方さえわかれば、
時代や場所を越えて、どこの誰とでも会話ができるのです、音楽で。


もしかしたら、時代や地域によって、読み方や表現の仕方が微妙に変化して、
それが時代性や地域性を生むのかもしれないけれど、
それで、グローバルスタンダードはあり得ないことになるのかもしれないけれど、

だからって、記譜を無視して勝手に弾いていいわけでもないんだけどなあ・・・
と思うわけです。


以前、私の息子が小さい頃、バイオリンを弾くのに、
譜面の1小節はどの1小節も、同じ長さだ、という約束を無視するように、
ゆっくりに感じる所はとてつもなくゆっくりと、
速く感じる所はとてつもなく速く弾いて、先生に注意され、
本人は注意されることや勝手に弾けないことが不満だったようだ、

という記事を書きましたが、

やっぱり、それはいいことではないと思うのです。

感じるものを感じるままに表現することはいいことだ、
という言い方もできるかもしれませんが、
それは一人の世界で一人で行う場合だけの限定ですね。

あるいは、そういう風にアレンジしていいと楽譜に明記してある場合。



音楽家を題材にした漫画や小説、映画などは、
「定められた演奏をから逸脱した素晴らしい才能の持ち主」みたいな人を
主人公にしているケースがありますが、それは本当に定められた演奏を熟知した上で、
あえて逸脱した演奏ができる場合のレアなケースに許される、のだと思います・・が、
いかがでしょう?
逸脱したものを安易によしとしている映画などは、ちょっとちがうなあ、と思ったりします。


(例えば、「四月は君の噓」は広瀬すずは超可愛かったけれど、
 メチャクチャな演奏だけれど、人の気持ちに訴えるから良しとする、
 なんて、そんなのないよねー、と思います。
「マダム・フローレンス!夢見る二人」で描かれる
 フローレンス・フォスター・ジェンキンスなんて、絶世の音痴だけれど、
 彼女のように、超絶音楽を愛して努力する人は認められるべき人だと思うのですよ)


早い話し、私が問題にしているのは、二人以上で演奏する時、
せーので一緒に演奏できないのは、困る、ということなんですけどね。


演奏する、ということ

人が二人以上寄れば、そこにそれなりのルールが発生して、
その関係がスムースになる。

基本概念があったとしても、その場その場、相手次第で、
変化することの方が自然なのかもしれない。


風景2



なんだか小難しい言い方になってしまったけれど、
要するに、演奏の問題である。


師匠方の義太夫の演奏会を見ても、
地方の師匠方と東京の師匠方の演奏は明らかに違う。
どこがどうって・・・。
言い方はあまりよくないのかもしれないが、
地方の師匠方の演奏は土臭い、というか、素朴、というか。
気持ち良くなって寝てしまうかも。
東京の師匠方の演奏はエンターテイメントになっていて、
目が覚める、というか、楽しめるというか、面白い。

成り立ちも求められ方も違うのだから、それは当たり前なのかもしれない、が。


私の師匠は、ある「農村文楽」に指導に行っているのだが、
そこでいつも演奏されているリズムが出来上がってしまっていて、
新人の演奏を直そうとしても、どうにも治らないのだそうだ。

それでも、その団体はその地の大学に外国から来る研究者等に、
依頼されて、日本の伝統芸能として演奏したりするそうだ。

義太夫は大阪発祥だから、大阪弁で大阪の音楽として育ってきたわけで、
呼吸や発音発声、イントネーション、間の取り方等々、
東京で、スタンダードとして演奏しているものだって、大阪から見たら
笑止千万なのかもしれない。

私が違和感を覚えた地方の師匠の演奏もその地方ではスタンダードであって、
東京の演奏は邪道なのかもしれない。

大阪の師匠方だって、「東海道中膝栗毛」という演目は「箱根を越えたらようやりまへん」
というのだそうで、「べらんめー」なんて江戸っ子の前で言えるかい、ってことだろう。

(ドイツ人の前で「第九」を歌う恥ずかしさ、と同じですね)

私が浴衣会で連れ弾きをするおじさんも、地元では依頼されてお寺などで演奏して、
好評なのだそうだ。


風景3


うーーーーーーん、おじさんが言うように、
何でもありなんだろうけれど、
うーーーーーーん、どうしたもんかなーー。



(海辺の街で暮らすとか、山の中で草木に囲まれて昼寝とか
 ふーん、望んでも得られないものは、実は多いにゃー)


今年も「第九」2

「第九」は当然ドイツ語で歌う。
歌う私たちは平たい顔族の生粋の東洋人の集団で、
しかもおじさんおばさん率の高い集団である。
からして、聴いて下さる聴衆の皆様には、一体何が伝わるのだろう?

メロディーや和声、歌う集団の生み出す熱量や波動は多分
充分に伝わるだろうけれど、
言葉のもつ意味やメッセージは本当に正しく伝わるのだろうか?



長唄や義太夫を聴きにきて下さる方々も、
よし!聴いたろう!と勢い込んで来て下さる方々も多いだろうに、
大概はその音の波の心地良さと、念仏のような言葉の意味の分からなさに、
いつの間にやら心地良い眠りに誘われて、それっきり、ということになろうか・・・と。

人はその生活で使用する言語によって思考し行動する。
思考の根幹となる「言語」は物凄く大切で、
もはや人はそれなしには生きていけない。


意味を把握して、それっぽくドイツ語を発音しよう、という努力はしているつもりだけれど、
歌の音形に気を取られたら、発音なんてかまっていられなくなる。
大阪弁を基本とする義太夫は関東の人間には、はなから無理なんだけれど、
なんとか真似して・・多分へんてこりんだろう。
邦訳詩で「第九」を歌ったり、
関東弁で義太夫を語ったり、
できることはあるけれど、それではどうも「それっぽく」ない。


スキャットやインストゥルメンタルでは伝わらない何かが
「言語」にはあるのだよねえ。

どうしたもんか、といつも思う。

今年も「第九」

一度は「第九」を歌いたい、
そう思って昨年、区の芸術文化振興財団の第九を歌う会に参加した。
オケも合唱も素人で、4人のソロだけは芸大の大学院生という構成。
指導者を変えながら、もう10年も続いているそうで、
長年参加の強者もいて、経験者も多い。
毎年新人、未経験者も参加して、合唱の人員は120〜130名といったところだろうか。

都内には「第九」を歌う会が、多分各区に一つはあるのではないかと思うくらい多く、
それらを回遊している「第九難民」もたくさんいる模様。
だから6月から始まった練習は、年が押し詰まるにつれて経験者の参加人員が増えて、
歌声に厚みが増す。



私は、昨年はソプラノで参加したが、今年はアルトで参加している。
10年前に長唄を始める前、オペラ合唱団で歌っていた頃から、
というか、小学校?中学?合唱ではいつもソプラノだったから、アルトは初めてだ。

高声のソプラノ、下支えのバス、中声のアルトとテノール。
メロディーラインのソプラノとテノール、
和声付けのアルト、バス、
主役、姫か娘役のソプラノと王子やイケメンのテノール。
敵役か女中か、おばさんのアルト、村長か町長、太った親方のバス。

というイメージのせいか、アルトをやりたいと思ったことはなかったけれど、
まあ、音とりとしては難しいパートを経験としてやってみようか、
くらいの気持ちで今回はアルトにエントリー。

続くのだろうか・・。
うーん・・。
なんだか、高揚感がない・・。

ソプラノに惑わされないで、高声と低声の中間を縫うように歌うのが快感だと、
アルト好きの方々はおっしゃるけれど・・。
この、面白くなさ加減が逆に面白い・・のか。

音とりの難しさに関してはテノールやバスも、よく歌えるなと思うくらい難解だし、
高揚感のなさはバスは半端ないだろう。
男子中学生は校内合唱大会など、面白くもなんともなかっただろうなあ、と
今にして思う。

ところが男性の合唱好きな方は少数ではあるけれど一定数いて、
強固な合唱愛を持っていらっしゃるようで、
そういうことも面白いなあと思う。


昨年ソプラノで友だちになった人は、一度アルトに挑戦した年は、
あまりの面白くなさに、9月までで見切りを付けて、ソプラノに戻ったそうだけれど、
さて、今年の年末、私はアルトで歌うでしょうか?
ソプラノに舞い戻るでしょうか?


ソウタの棋

ソウタの棋

イラストレーターのTAKUMIさんによる「ソウタの棋」
漫画家・小畑健「ヒカルの碁」風のイラストが秀逸ですね。

今、空前の将棋ブームです。
将棋の棋士の面々のキャラがなんとも濃くて面白い。
知り合いが世話人をする地方自治体の子ども教室は、
今まで、囲碁教室の集まりに比べてチョボチョボだった将棋教室が、
あっという間に子どもで満杯なんだそうで、ブームというのはすごいなあ、と思います。


8日放送のNHK総合「NHKスペシャル『徹底解剖 藤井聡太~“進化”する14歳~』
(再放送:7月19日(水)0:10~0:49(予定)だそうですよ。)
ご覧になった方も多いと思いますが、
渡辺明竜王や羽生善治三冠の藤井四段の将棋の解説が面白かったです。

藤井四段の将棋の特徴として、
何と言っても、莫大な数をこなした詰将棋による経験値、
そしてAIに近い感覚をあげていました。
藤井四段は詰将棋解答選手権三連覇ですからね。
詰め将棋は数十手先まで読むそうです。
AIに近い感覚というのは、今までの将棋のセオリーではちょっと考えられない手を
AIと同じようになんの恐怖心もなく打てる、ということだそうです。
セオリーに関係なく、AIが示す最善手と同じ手を躊躇なく打てるわけですね。

そして、渡辺明竜王や羽生善治三冠がそろってあげていた、
20連勝目をかけた澤田真吾六段との一戦。
追いつめられて後のない藤井四段は
持ち時間がなくなり一分将棋になった澤田六段に対して、
澤田六段が引っかかれば数十手先で自分の勝ちにつながる手を指します。
それはAIは決して最善手としません、何故なら、それは「悪手」だから。
それをあえて仕掛ける勝負師としての感覚を羽生善治三冠は絶賛していました。

藤井四段の師匠、杉本昌隆七段は、
その感覚は藤井四段が小さい頃から持っているもので、
だからこそ強いのだと、
AIからの影響ばかりが喧伝されるけれど、
決してそればかりではないのだと、強調していました。



人間ってすごいなあ。
胸がすくような、爽快さがありますね。


人間、捨てたもんじゃないですよ。


浴衣会

義太夫の浴衣会で、私、今年は二つの演目に出ます。
一つは語りです。
もう一つは弾き語りをするおじさんの三味線の連れ弾きをします。
これは成り行きで出ることになったので、とっても不安です。

義太夫は基本、三味線と語りが一人ずつ組みます。
素人の演奏会では、そのどちらかにプロがつきます。
でないと、演奏があさっての方向に行ってしまう恐れがありますからね。

私が語りで出る演目では、大阪からいらっしゃる三味線弾きさんが三味線を弾きます。

弾き語りに連れ弾きで出る演目は、おじさんも私も素人で、すごーく不安です。
ホントにホントに不安です。
だって、おじさん、「人と合わせる」気がないんだもの。

リズムやタイミングを合わせるために、かけ声をかけたり、
息を飲んだりするのですが、それが合わない。
「あとノリ」のリズム(ン、タ、ン、タ、)ができないので、自分なりのリズムで進めてしまう。
休むべき所に休みを入れない。


三味線弾きの先生が違うよ、と指摘しても平気。
おじさん曰く、三味線弾きの言う通りに弾かなくていいんだって。
昔の録音を聴いてもいろいろだし、先生によってもいろいろな弾き方があるから、
自分なりに弾けばいいんだって。下手でいいんだって。

えー!それはもはや義太夫ではないだろー!

私は「このはげー!」とは言いませんし、修行だと思って本番に出ますけれど、
それは違うだろー!と思います。

こういう「おじさん」実はわりといます。

昔から、素人の旦那衆はお師匠さんに褒められておだてられて、
気持ちよくなることが目的で、稽古に通う人も多く、
今でも、そういう発表会はいっぱいあります。
素人はお金をいっぱい貢いでくれる「御連中さん」なので、
お師匠さんも、きついことは言わず、うまーく転がすわけですね。

でも、それに乗せられているのもつまらないと思いますけど・・。


「最善手」というのはどんなものにもあって、それを身に付ける、
追求することが「最善」に近づく方法だと思うのですよ。

追求しても技量が及ばなくて下手なのは恥じることではないけれど、
はなから追求することを放棄するのは、いかん、と思います。

最善手 3

そう考えてくると、一つ、指標となるものが見えてきますね。

「美しい」ということ。
美は善なるものだ、ということですね。
シンプルなもの、それは美しいもの、
それでしかないもの、そこにあるべきもの、ですね。



「美」の判断基準も人それぞれ、と言ってしまえばそうかも知れませんが、
おのれを虚しくしたならば、
きっと見えてくる「美」が「最善」なのではないか、と思うのですよね。


「おのれを虚しくする」というのはどういう事かと言うと、
感情に流されない、ということでしょうか。
芸術の最善が感情に左右されるものではない、と思うのですよ。

それが、勝負や理性による最善の導き出し方と、
芸術による最善の導き出し方は、結局は同じだと思う所以(ゆえん)ですね。

そしてそこに共通するものは「美しい」ということだと思うのですよ。



私もそういう最善手が指せるといいなあ・・と思うばかりで、
技量であったり、感情であったり、おのれの弱さであったり、迷いであったり、
邪魔するものばかりたくさん持って生きているので、
なかなか満足には程遠い・・というわけです。

あ、でも、人の「感情」というのは決して必要のないものだとは思いません。
甘味な感情、苦い思い、ちょっとしょっぱい悲しさ、どす黒い感情さえも、
それがあるから生きているわけで、
うーん、でもそれと「美しさ」はどういう関係にあるのでしょうかね。
それはまだ、よくわからないなー。


最善手 2

勝負という明確な目的のある将棋には、
あらゆる局面で明確な最善手があるのは当然ですね。

それに比べて、音楽、美術、芸能、芸術、
人が生きて生活することに関しては、
何が最善であるかは、どう生きるか、どう生きたいか、に関わるわけで、
その最善は人それぞれ、なんでしょうか。


そう考えると、勝敗のない世界の最善手というのは、
おのれの満足でしょうか。
自分の欲する状態にピッタリくる、という感覚でしょうか。




連勝の止まった藤井四段へ「ひふみん」こと加藤一二三九段が
ツイッターで贈った激励のメッセージというのが含蓄があって良いですね。

 「棋士人生はまだまだこれから!
  いま始まったばかり。
  そして、勝負事には、
  勝ちか負けの二択しかない。
  だからこそ、
  つねにその先にあるものを見据えて
  観る人びとの魂を揺さぶる、
  後世に残る棋譜を紡いでいただけたらと願う。
  偉大なる後輩棋士たちの、
  長い長い棋士人生の前途を祝して。」


 「人生も、将棋も、
  勝負はつねに
  負けた地点からはじまる。」


ご自身の1324勝のうち90%は「名局」であり、
バッハやモーツァルトの「名曲」のように何百年たっても人々の感動を呼ぶ、
のだそうですよ。

本質は勝負の世界も芸術の世界も同じなんでしょうね。



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