これから

私と同い年の男性が、「あと20年かなあ」と言う。
身体が丈夫で、何事もなければ、
あと20年は楽しんで生きられるんじゃないか、と言う。

あと、20年か。

短い。


おぎゃあと生まれて、ハタチまでだ。

しかもその赤ちゃんからハタチまでの20年間に
目を輝かせて経験して吸収する沢山の未知のことに比べたら、

私たちがこれから経験できることはほんのちょっぴりだ。

赤ちゃんのほっぺたがちょっとの傷なんかあっという間にスウッと治ってしまったり、
ちょっとすっころんだって、猫より柔軟だったり、
一日一日目に見えてできることが増えていったり、

そういうことの逆のことを、これから経験していく、
牛の歩みになり、できないことが増えていく、
という20年、

ちょっときついなあ、悲しいなあ、と正直思ってしまう。


鳥居


この道はどこへ通じているんだろう?



明晰夢

夢を見ながらそれが夢であると自覚できる夢を、
初めて見た、と息子が言った。

明晰夢(めいせきむ)というそうだ。
夢を見ながら自分でコントロールできるらしいよ、と。


私はほぼ毎晩そういう夢を見る。



カナルカフェ2



ネットには、どうしたらみられるのか、とか、
いい影響悪い影響などについて書いてあるが、
「浅い眠りの時に見る夢」というのが単純な正解だと思う。


私は夢の中でそれが夢だと自覚があるし、自分でストーリーをいじったり、
ストーリーを行きつ戻りつしたり、
一度起きて、続きが見たければ、もう一度同じ夢に戻ったりする。

だからよっぽど眠りが浅く、身体にはよくないと思う。



ある作家は、ある日夢を見ながらこれは小説のプロットになる!と確信して、
急いで起きて頭の中から消えて行くストーリーを必死でメモに書き写し、
それをもとに書いた小説が新人賞をとった、のだそうだ。
ただ、そんな経験はその一回だけだそうだ。

私の見る夢はいつもの日常のすぐ隣のちょっと変な日常のひとこまで、
小説になるようなものでもない。
目覚めてメモしてみたこともあるけれど、後から見てもメモの意味もわからないし、
無理に思い返そうとすると楽しくないからそういうのはやめた。
無理をしなくても印象に残っていることはしばらく頭の中で楽しく反芻する。


ちょっとそれは楽しい。


ヒーリング

私は根が天の邪鬼にできているせいか、 
いわゆるナチュラリストというのか、自然派の、
身体にも心にもいいものを追い求めてます的な、
良くできた女が大嫌いだ。

相手のためにいい言葉をかけましょう、とか、
日のひかりの中で幸せを感じましょう、とか言われたら、
大きなお世話だと思うし、嫌みか?と勘ぐる。


だから、
 
「 どんな時も自分のカラダだけは自分に寄り添っていてくれる。

  口から出る言葉は自分に返ってくる、悪い言葉も自分に返って自分を傷つける、
  だから口から出す言葉には気をつけよう。 」

などというヨガのインストラクターの言葉は、
私が素の状態だったらすんなり入ってこなかっただろう。

声を出している時、インストラクターが私に近づく気配がして、
何事かを高めの声で投げかけたけれど、私はそれがイヤで、
低めの声で抵抗していた。
何かこう、そういうアプローチがイヤで、
勝手に悟りたいクチなんでしょうね、私。


90分間声を出している間、インストラクターが鳴らしていたシンギングボウル
(singing bowl)の倍音にヒーリング効果があったのかもしれない。

シンギングボウル
(singing bowl)

↓をクリックするとYouTubeに飛びます。
シンギングボウルの音
(この録音は一人の瞑想にいいと思う。ヴォイスヒーリングヨガのクラスは多人数で皆大きな声を出していたから、シンギングボウルの音ももっとガンガン大きかった)

仏様のおりんとかお寺の鐘とか、お坊さんがお経を読む時の鐘、
まさに声明やゴスペルの効果と同じだろう。


うっかりそれにやられてしまったわけで・・
心地良く真人間になれるなら、良しとします。





カラスウリの花

カラスウリの花。この花が開花するとびっくりしますよ、
といたずらっぽくお土産にくれる感覚って可愛いなあ、と思う。



声を出すということ

「音大に入って感動したことは、合唱のハーモニーが
 今まで経験したことがない程に神であったことだ」
という逸話を、何人かに聞いた。
「ただのハッピー・バースデーがハモっていて感激した」というのもある。


朝顔



私が参加している素人合唱団ではそういう経験はできない。
むしろ他人の音の外れ方が気になってしまう。
本番では自分の力を出し切るだけで、
「神のような合唱」にひたることはない。


オーケストラでも長唄でも、
聞いて感動するものは、中で演奏していても魂が震えるのであろう。


鉄線



素人がそういう経験ができるとしたら、
没我の状態でで声を出すなり、音を出すなりできる状況だろうか。


そんな疑似体験だったのが、ヨガの特別クラス「ヴォイスヒーリングヨガ」だったのかも。

ヨガは健康の為にやっているけれど、あまりスピリチュアル系や瞑想系のクラスは、
変に影響されるのが嫌でとらないようにしている。
けれど、日頃声をだすことばかりしているのだから、
もっと自由に声を出せるようになれば、と思って参加した。

多人数で90分、全身から汗も涙も鼻水も流れる程自由に声をだしてみると、
ああ、これは声明とか、ゴスペルとか、そういうたぐいのものなんだと納得した。


多人数だからこそできる音のうねりや呼吸の間や体温や波動、
それらを自分が出すと同時に全身で浴びている。
それらが肉体に影響を及ぼすのは当たり前だな、
と思った。


意味のないただの声が持つ自由さ、
音程や音階がないからこそ自由に発することができ、
ふんだんに浴びることができたのかもしれない。


蓮



満ちあふれて降りそそぐ声の中にいると、

 どんな時も自分のカラダだけは自分に寄り添っていてくれる。

 口から出る言葉は自分に返ってくる、悪い言葉も自分に返って自分を傷つける、
 だから口から出す言葉には気をつけよう。

そう言うインストラクターの言葉が、ああ、そうだな、と素直に聞けた。





品格

5月から頑張った長唄「勧進帳」が終わった。
一人で三味線も唄も完成。完璧とは程遠いけれど、とりあえず満足。
舞台一面総勢100人超で演奏すると鳥肌がたつほど感動する、超名曲!!



さて、秋に向けて次の曲は「喜三の庭」(君の庭)
安政6年、岡安喜三郎という人の弟子の新居の新築祝いに作られた曲。
一曲の中に三つの秋の情景が描かれる。

まず一つ目は、平家物語の「小督」(こごう)を題材にした秋。
高倉天皇の寵愛を受けた「小督」(こごう、と読む、女性の名前)は、
天皇の后の父平清盛に遠慮して嵯峨野に隠れ住む。
小督を忘れられない天皇の命を受けた源仲国が探しにくると、
小督の弾く箏の音が聞こえてくる。
笛の名手仲国は静かに笛を奏で、二人は「想夫恋」(そうふれん)を合奏する。

小督


二つ目はそれから700年のちの江戸の吉原。
女たちが秋の野花のように美しく咲き乱れる遊郭。
三味線で清掻(すががき、開店合図の三味線)を弾く遊女の元に、男たちがやってくる。

見世清掻き


三つ目は新居祝いに豊年の秋の実りを囃して歌おう、というもの。


この曲の演奏にあたって、心すべきは「品格」なのだという。
「小督」という曲は能にも筝曲にもあり、
「喜三の庭」には能の詞が使われ、筝曲の手が入っている。
小督は愛する天皇を思って仲国と「想夫恋」を合奏する。
色っぽいことになりそうでならない。

合奏するだけで充分情愛があふれ、
格子越しに女を見るだけで充分色香が漂う。
あるかもしれないし、ないかもしれない。


昨今、文春砲なるものが数々の芸能人を乱射しまくっている。
人の色恋など探って白日の下に晒して何が楽しいのだろう?
ただ、自由に恋愛のできる人種が羨ましいだけなんじゃないか・・と思ってしまう。

秘してこそ花。
品格あってこその、恋。


何もかも表向きだけは正しくないといけない平成の世の中では、
昭和歌謡も歌えません。



絶版

十年程前、妹と親の家を片付けた時、
そのほとんどのものが、全く必要のないガラクタであり、
それらを処分する時間と労力とお金が半端なくかかる、という事実に
愕然とするというよりは、むしろ、猛烈に腹がたった。

私は親の家まで新幹線で通い、
地元の妹はゴミの日を狙って出す大量のごみをとがめられ、
車で直接焼却場に運び込むことを何回もして、
なんとか終決したけれど、
もう、家の片付けなど、二度としたくはない。

自分はそうはならないように、と思ったはずなのに、
どうやら、我が家も息子たちにとってはいらないものの宝庫で、
申し訳ない。早く、なんとかしたい。


とは思いつつ、古い義太夫の床本(台詞と譜面が一体となったもの)を
買い込んだりして、困ったものだ。

義太夫床本2
(心中天網島 時雨炬燵)
義太夫床本5
(大きさはそろっていませんが、上の本の最後の見開きです。
 黒い墨書きが詞、朱色の字は朱と言って、三味線の手。)

こういう床本はもう印刷販売されていないので、
太夫さんだった人の遺族が売りに出したり、義太夫協会が販売会をしたりしている。
文楽の人は師匠からこういう床本を借りて、真似て手描きをして使う。
私たちは自分が読める字を手描きする。

こういうものをこんな素人にバンバン売ってしまっていいのだろうか。
こうやって貴重な資料がどんどん散逸していくのに。



長唄の譜に青柳譜というものがある。

青柳譜  青柳譜2

(これも大きさが揃っていませんが、左が表紙、右が出だし部分)

これが現在、版元で印刷を停止してしまい、
印刷済みのものを順次販売して、売り切れ次第終了なのだそうだ。
すでにこの、「蜘蛛拍子舞」という譜面は絶版である。

えええええ!である。
私でさえびっくりだから、本職やら、これから本職を目指す若者やら、
芸大受験生やらは本当に困るだろうに。

私が親の家を片付けた時のゴミのように、
必要のない人や興味のない人には全くどうでもいいゴミなのだけれど、
でも、確実にこうして文化が滅びていっているのに・・・。


50年とは言わない、10年後、日本はどうなっているのだろう?

私のカケラ

大学生の時、デザイン学校の夜学にダブルスクールで通った。
そのデザイン学校の夜間コース開設第一期生だったので、
学校側も、どんな人間を集めたらいいのかわからなかったと見えて、
結果、高校の新卒生から、私のようなダブルスクール組や、
すでにデザイナーとして活躍している人、カメラマン、工芸家、絵描き、
役者、ただのアルバイター、等々の雑多な人間が集まって、
毎日夜の渋谷で飲んでばかりいたけれど、それなりに面白い日々だった。


その頃の飲み仲間が久しぶりに渋谷で集まるというので、用事の後合流した。
飲み会は4時から始まったのだ。
今や沼津のエスニック料理屋のオーナーシェフにおさまっているおじさんが、
乗車する渋谷発のバスの時間に間に合うように、そんな時間開始になったそうで、
笑った。


きゃあ、久しぶりー!
白髪になったり、シワがふえたりしても、もともと仕事をもっていたおじさんたちは、
あまり変わらない。
私は、卒業以来何十年も会わなかった一人の女性の顔を見るなり、
「あーーーーー、ゴミ袋に立体を入れて来たヒトーーーーー!」
と思わず叫んでしまった。


そうそう、昼間会社勤めをしていた彼女は、
立体を作るという課題の作品を満員電車でつぶされたくないからと、
ごみ袋に空気を入れて大きくふくらませて学校に持って来たのだ。
電車の中で「それは何ですか?」と聞かれて、「立体!」と答えたそうで、
私はそれを強烈に記憶していた。

彼女は才能も確かだったけれど、満員電車に毅然として大きなゴミ袋を持ち込む、
その気丈さに関心したのだった。


ところが、当の彼女はそんなこと覚えていないという。


優等生の彼女に比べて、デザインの授業自体はいい加減に受けていた私が
みんなに残した強烈な印象は、
学園祭でファッション科の子たちが主催したファッションショーに出て、
飲み過ぎていて、踊り過ぎてコケタことらしい。


やだー、
ヒトの記憶の中には、自分が思いもよらない自分のカケラが刷り込まれているんだ、
色々なヒトの記憶の中の色々な私のカケラを書き集めたら、
プリズムのように、キラキラと、いろいろな私が見え隠れするんだろう、


と、そう思ったら、不思議な心持ちになった。




大きな声で歌いましょう

世の中には「第九」を歌いたい人がたくさんいるのですね。

第九1


で、その迷える子羊たち、というか、さまよえる流浪の民を救わん、と、
手を差し伸べる先生方もたくさんいて、というか、それがお仕事なのでしょうが、
なんとか、合唱としての体を成すようにと、一生懸命にご指導下さいます。

その先生方も、実はご自分も声の出し方で試行錯誤されてきたわけで、
そしてそれを、どのように伝えたら伝わるかで、苦心していらしたのですね。

皆さん、ご指導がユニークです。


大きいホールで最後列まで届くような声というのは、
とにかく息を一杯吸って、息を一杯吐く、それに尽きる。

まず鼻の穴を目一杯広げます。
で、その鼻の穴から思いっきり、ソーメンをすするっ!
躊躇しない!一気にすする!
そうしたらそれを、自分がマーライオンになったつもりで、一気に吐き出す!
はいっ!ドーーーーーーーーーーーーッ!!!


それを何回もやります。


女声、とくにソプラノはいかに高音を美しくかつ大きな声で遠くまで届けるかが大事。
特に、「第九」はマジ?と思うくらいの高音で。


声をただ前に出すのではなく、
お腹を使って何メートルか先にいる人にボールを投げるように。
それをどんどん遠くまで放るように出しましょう。
というのは、わかりやすい指導です。

声は前に出そうとするとカラダに力が入ってしまいます、
もっと楽に出すには、自分の口の中に大きなホールをイメージして下さい。
のどにおおきな反響板があります、そこに、反響させて、前に出すのです、
はい!楽に、反響させて!アーーーーーーーーーッ!
というのも、まだイメージしやすい指導です。


で、メゾソプラノから苦労してソプラノに転向したという先生が、
苦労して編み出した秘伝を女性だけに内緒で教えて下さいました。

アンテナで高音をキャッチするのですっ!
まず、頭の上にアンテナを立てます!
(100名近い女性が全員頭の上に手でアンテナをはやします)
で、それで周囲の電波を捕らえて下さい。
(みんな手の平を左右に向けて電波を探します)
そして、正面からきた電波を捕らえます、ハイッ!
(先生と一緒に手の平を前に倒します、キャッチ!)
ほら、高音が出たでしょう。いいですか、これ、内緒ですからね。



そうなんです、とにかく美しい高い声さえ出せれば無敵なのです。




演奏する、ということ 2

前回の記事に
「芸術にはグローバルスタンダードはありえない、ということではないか」
というコメントをいただいたのだけれど、
うーーん、そうなのかもしれないけれど、

うーーーん、早い話し、おじさんに勝手な演奏されると私が困るのです。
私がプロで、伴奏をするように雇われているのなら、文句は言いません。
でも、そうじゃないし・・。

シチめんどくさく言うと、
「共通認識を持てない演奏、というものは芸術以前の問題なのではないか」
と思うのです。

楽譜とか、記号とか、言語とかを操る私たちは、そういう共通言語によって会話をし、
共通認識を持つことによって、同じ時間を共有し、演奏をすることができます。

音楽はすごーく言語に似ていて、
楽譜は頭の中に浮かぶ事象を記号化できる優れものです。
楽譜にも、洋楽の譜面あり、邦楽の譜面にも様々なものがあり、
世界中の音楽にはそれぞれ異なった面白い記譜方法がある、
それは言語の違いと似ていて、言葉や発音は違っても、
何を意味しているのかは、だれでも共通理解できるはずなのだ。

そういうのって、面白いと思いませんか?

だから、譜面の読み方さえわかれば、
時代や場所を越えて、どこの誰とでも会話ができるのです、音楽で。


もしかしたら、時代や地域によって、読み方や表現の仕方が微妙に変化して、
それが時代性や地域性を生むのかもしれないけれど、
それで、グローバルスタンダードはあり得ないことになるのかもしれないけれど、

だからって、記譜を無視して勝手に弾いていいわけでもないんだけどなあ・・・
と思うわけです。


以前、私の息子が小さい頃、バイオリンを弾くのに、
譜面の1小節はどの1小節も、同じ長さだ、という約束を無視するように、
ゆっくりに感じる所はとてつもなくゆっくりと、
速く感じる所はとてつもなく速く弾いて、先生に注意され、
本人は注意されることや勝手に弾けないことが不満だったようだ、

という記事を書きましたが、

やっぱり、それはいいことではないと思うのです。

感じるものを感じるままに表現することはいいことだ、
という言い方もできるかもしれませんが、
それは一人の世界で一人で行う場合だけの限定ですね。

あるいは、そういう風にアレンジしていいと楽譜に明記してある場合。



音楽家を題材にした漫画や小説、映画などは、
「定められた演奏をから逸脱した素晴らしい才能の持ち主」みたいな人を
主人公にしているケースがありますが、それは本当に定められた演奏を熟知した上で、
あえて逸脱した演奏ができる場合のレアなケースに許される、のだと思います・・が、
いかがでしょう?
逸脱したものを安易によしとしている映画などは、ちょっとちがうなあ、と思ったりします。


(例えば、「四月は君の噓」は広瀬すずは超可愛かったけれど、
 メチャクチャな演奏だけれど、人の気持ちに訴えるから良しとする、
 なんて、そんなのないよねー、と思います。
「マダム・フローレンス!夢見る二人」で描かれる
 フローレンス・フォスター・ジェンキンスなんて、絶世の音痴だけれど、
 彼女のように、超絶音楽を愛して努力する人は認められるべき人だと思うのですよ)


早い話し、私が問題にしているのは、二人以上で演奏する時、
せーので一緒に演奏できないのは、困る、ということなんですけどね。


演奏する、ということ

人が二人以上寄れば、そこにそれなりのルールが発生して、
その関係がスムースになる。

基本概念があったとしても、その場その場、相手次第で、
変化することの方が自然なのかもしれない。


風景2



なんだか小難しい言い方になってしまったけれど、
要するに、演奏の問題である。


師匠方の義太夫の演奏会を見ても、
地方の師匠方と東京の師匠方の演奏は明らかに違う。
どこがどうって・・・。
言い方はあまりよくないのかもしれないが、
地方の師匠方の演奏は土臭い、というか、素朴、というか。
気持ち良くなって寝てしまうかも。
東京の師匠方の演奏はエンターテイメントになっていて、
目が覚める、というか、楽しめるというか、面白い。

成り立ちも求められ方も違うのだから、それは当たり前なのかもしれない、が。


私の師匠は、ある「農村文楽」に指導に行っているのだが、
そこでいつも演奏されているリズムが出来上がってしまっていて、
新人の演奏を直そうとしても、どうにも治らないのだそうだ。

それでも、その団体はその地の大学に外国から来る研究者等に、
依頼されて、日本の伝統芸能として演奏したりするそうだ。

義太夫は大阪発祥だから、大阪弁で大阪の音楽として育ってきたわけで、
呼吸や発音発声、イントネーション、間の取り方等々、
東京で、スタンダードとして演奏しているものだって、大阪から見たら
笑止千万なのかもしれない。

私が違和感を覚えた地方の師匠の演奏もその地方ではスタンダードであって、
東京の演奏は邪道なのかもしれない。

大阪の師匠方だって、「東海道中膝栗毛」という演目は「箱根を越えたらようやりまへん」
というのだそうで、「べらんめー」なんて江戸っ子の前で言えるかい、ってことだろう。

(ドイツ人の前で「第九」を歌う恥ずかしさ、と同じですね)

私が浴衣会で連れ弾きをするおじさんも、地元では依頼されてお寺などで演奏して、
好評なのだそうだ。


風景3


うーーーーーーん、おじさんが言うように、
何でもありなんだろうけれど、
うーーーーーーん、どうしたもんかなーー。



(海辺の街で暮らすとか、山の中で草木に囲まれて昼寝とか
 ふーん、望んでも得られないものは、実は多いにゃー)


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