謝罪

カトリーヌ・ドヌーヴが性暴力被害者に謝罪。


カトリーヌ・ドヌーヴが性暴力被害者に謝罪 「セクハラ告発非難」声明と署名で

↑これはYahoo!headlinesだけれど、読売新聞にも記事として掲載されていた。

ドヌーヴの最初の声明が性暴力被害者を攻撃する意図などない、
ということは明白なのに、
それでも世間は自由な発言を断じる。

ドヌーヴの意図は「特に芸術の世界で起きかねない表現規制を案じた」ところにあり、

「他者を断罪し、裁き、批判する資格が自分にあると、
 あらゆる人が感じている現状は好きではありません」
「ソーシャルネットワークが人を罰し、仕事を辞めさせ、
 メディアリンチすら引き起こす。
 30年前の行いで、ある俳優は映画から存在を消し去られ、
 映画ディレクターは辞任を要求される。
 そんなことが一般的になりすぎた現状は好ましくない。」

と綴っている。


彼女の考え方は至極真っ当だと、
まともな人間なら、そう感じるだろうに、

そんな女優にも謝罪をさせてしまう、
変な世の中だこと・・。



またまた、アウトプット(思うこと3)

私自身にとって、書くことが自己治癒になっているかというと、
それは怪しい。

「ブログに書く」という形で自分の頭の中にあることを整理することはできても、
ここで本音をさらけだしてスッキリ出来るかと言ったら、
それはできない。
自分の中の過激な考え方にはブレーキをかけざるをえないし、
人様に対して批判的なことを書けば、今の世の中何が起こるかわからない。


かといって、ここで書いていることは、オブラートに包んでいるとは言え、
私自身が考えていることに違いはないわけで、
それは家族、身内、プライベートの知り合いには読んでほしくない。

商売や仕事関係、Facebookに連動しているブログなどでは、
ある程度「よそ行き」の顔で書いているのだろうと想像するがどうだろう。
それともそういう人は本当に心穏やかないい人なんだろうか?



だから私自身が完全に私自身を隠して、絶対的に安全な場所で、
言いたい放題言える状況でなければ、どんなに「書く」というアウトプットをしても、
フラストレーションばかりが増幅する。
その安全な環境がいわゆる匿名のSNS? 裏垢?
んー、なんだかそんなの低俗だなあ。

あるいは創作とか創造とかフィクションの世界?

かといって心和む絵本を私が書いたら、それは間違いなく偽善だ。


アウトプット(思うこと2)

「生きにくさ」などというものは誰もが感じているのだろう。

食べることに必死にならなくてもなんとか生きていける現代だからこそ、
「生きる」ということに身構えてしまったりするのだろうか。

私たちは随分贅沢な生き方をしているものだ、と思う。



SNSに「死にたい」などと気安く書き込む人間は、
そう書き込むことによって死なずに生きていけるのだと、
生きたいから「死にたい」と書くのだと、
書き込んでいる当人が言うのだから、そうなんだろう。

「蛇にピアス」を書いた金原ひとみがインタビューに答えている。
子どもの頃から死にたい欲求があり今でも生きるのが普通につらい。
ピアスやタトゥーという、まさに「痛みだけが生きている実感をくれた」のだけれど、
痛みでは最終的に生きる実感を取り戻せなくなった、というのが
「蛇にピアス」で書いたことなんだそうだ。
「痛み」があれば元気になるのではなく、逆におちてゆく。
よりダウナーになり死ぬ気力すらなくなる、のだそうだ。

なんだか健康な人間には聞きたくもないような感情なんだけれど、
そういう人には実際そういう感覚があるのだろう。

で、そういう状態で、何がはけ口になって生きていられるのかというと、
彼女には、それは「書くこと」なんだそうだ。
「書くこと」が自己治癒になっているのだと。
自分は信用できないけれど、自分の書いたものは信用できる、
アウトプットすると風向きがかわるかもしれない、と。


さてそれはSNSに「死にたい」と書き込むことに似ているのかもしれない。

そこにつけいるキモイヤツがいなければ、
なんとか成り立つ治療でありうるかもしれないし、
あるいはそういうキモイヤツが治療になりうるのかもしれない。


人は複雑だ。



きれいな手(思うこと1)

座間市のロフト付きワンルームで9名の男女の遺体が発見された事件。

事件の異様さと、
(女性のツイッターに送られたという)ロープと共に写る容疑者のきれいな手、
護送される容疑者が顔を覆うきれいな手、
との違和感がどうにもぬぐえない。


キモイという人もいるけれど、歌舞伎町でスカウトをしていたという容疑者はやさ男で、
女に気安く声をかけることが生業だったのなら、
15や16の女の子をひっかけるなんてちょろかっただろう。
ネットの世界にはメンヘラ女がいっぱいいると言うけれど、
現実の世界にもメンヘラはいっぱいいて、
それを食い物にする男もいっぱいいる。

簡単に男について行くといったって、
本当に信頼していいいのか、自分のことを思ってくれるのか、
自分を救ってくれるのか、あるいは現実の苦しみから解き放してくれるのか、
それが真実恋愛に発展するのか、ゆきずりにすぎないのか、
利用されているだけなのか、
なんてことはわからない。

女を簡単にセックスに持ち込めるちょろいヤツとあなどる男、
さあそれを、こいつの本質は何だろうと興味本位で付き合ったとして、
そこで殺されるか否かは運次第、ということか。

どうにも穴ぼこだらけの現実と、
血の跡も、傷も何もないきれいな手が、
そぐわない。


いったい何なんだろう。

友だち

友人が、私の住む路線沿線の介護施設に母親を入所させた帰りに、
途中下車して、久しぶりに会った。


長男が生まれる前だから、もう30年以上前になる。
その友人の実家の中華料理屋をちょっと手伝ったことがある。

彼の一族は「小説より奇なり」を地で行く数奇な運命の中にあって、
孤軍奮闘するお母さんを見かねた彼が、ヒマだった私に手伝いを頼んだのだ。


彼自身もそれから、信じられないような事件ばかりに遭遇し、
お母さんが頑張っていた店も、その後、恩人に大金を持ち逃げされて畳んだ。


あの頃、本当に誰よりも力強く大きな声を出して頑張っていたお母さんも、
もう80を過ぎ、頭はしっかりしてはいても、足がきかなくなって車椅子の生活で、
かつての立ち仕事の無理がたたったのだと彼は言う。

すったもんだの大事件を経て離婚して一人者になった彼が食べることや生活全般を、
10年ほどできる限り支えてきたけれど、諸々限界で、
お母さんを説得して施設への入所を決めたのだそうだ。
10カ所以上の施設を見学して、雰囲気と介護者が明るく、
入所者が幸せそうにしている所に決めたのだと言う。
今までは彼が出来合いのものを用意したり、老人向けの仕出し弁当を利用したり
してきた食事も、施設で食べることができる。
ありがたいけれど、本音を言えばまともだったら、あれは食べられないなあ、
と彼は言う。


みどり鬼


私は、認知症の父が施設で暴れたり問題を起こしたりする度に呼び出されたことや、
母が施設の(子どもだましのように見える)レクリエーションに参加する姿が
可哀想で情けなくて、妹と泣けてしまったことや、
身体の自由がきかなくなっても頭だけはしっかりしていた母が、
全く美味しくなさそうなドロドロの食事さえとれなくなって、
胃ろうをするのが恐い、と筆談したこと、
鼻からの栄養チューブだけでも身体だけは丈夫だった父が、
認知症が進んで、私が行っても空を見つめるだけで、
そんな生活が7年も続くと、通うことも苦痛になってくる、その、
良心の呵責に苦しかったことなど、などなどなどなど、諸々、
思い出してしまった。


彼はこれから、離れた所にいる母を思って、もっと大変だろうなあ。


こうなったら、ケツの毛を抜かれるまで「先物」をとことんやってやる、
懲りない彼はそうやってまた彼なりに人生に立ち向かっているけれど、
それは「立ち向かう」というよりも「歯向かう」に近いなと思った。


半端なく身体を鍛えているという自負のある彼は、
最近スポーツジムで、ダンベルやら運動器具を少しでもきれいに置かなかったり、
自分のテリトリーに無自覚に近づくヤカラが許せなくて、喧嘩を売ってしまうのだそうだ。

「それは老化だよ」と言ってやったら、目を丸くして、
「そうか!老化か!それは気がつかなかった!そうか!」
といかにも得心したように大声を出した。


そうなんだよ。
30年もたてば、親だけでなく、私たちも、もう、
老化しているんだよ。

自分も大切にしてね。


ほんと、そう思う。




これから

私と同い年の男性が、「あと20年かなあ」と言う。
身体が丈夫で、何事もなければ、
あと20年は楽しんで生きられるんじゃないか、と言う。

あと、20年か。

短い。


おぎゃあと生まれて、ハタチまでだ。

しかもその赤ちゃんからハタチまでの20年間に
目を輝かせて経験して吸収する沢山の未知のことに比べたら、

私たちがこれから経験できることはほんのちょっぴりだ。

赤ちゃんのほっぺたがちょっとの傷なんかあっという間にスウッと治ってしまったり、
ちょっとすっころんだって、猫より柔軟だったり、
一日一日目に見えてできることが増えていったり、

そういうことの逆のことを、これから経験していく、
牛の歩みになり、できないことが増えていく、
という20年、

ちょっときついなあ、悲しいなあ、と正直思ってしまう。


鳥居


この道はどこへ通じているんだろう?



ヒーリング

私は根が天の邪鬼にできているせいか、 
いわゆるナチュラリストというのか、自然派の、
身体にも心にもいいものを追い求めてます的な、
良くできた女が大嫌いだ。

相手のためにいい言葉をかけましょう、とか、
日のひかりの中で幸せを感じましょう、とか言われたら、
大きなお世話だと思うし、嫌みか?と勘ぐる。


だから、
 
「 どんな時も自分のカラダだけは自分に寄り添っていてくれる。

  口から出る言葉は自分に返ってくる、悪い言葉も自分に返って自分を傷つける、
  だから口から出す言葉には気をつけよう。 」

などというヨガのインストラクターの言葉は、
私が素の状態だったらすんなり入ってこなかっただろう。

声を出している時、インストラクターが私に近づく気配がして、
何事かを高めの声で投げかけたけれど、私はそれがイヤで、
低めの声で抵抗していた。
何かこう、そういうアプローチがイヤで、
勝手に悟りたいクチなんでしょうね、私。


90分間声を出している間、インストラクターが鳴らしていたシンギングボウル
(singing bowl)の倍音にヒーリング効果があったのかもしれない。

シンギングボウル
(singing bowl)

↓をクリックするとYouTubeに飛びます。
シンギングボウルの音
(この録音は一人の瞑想にいいと思う。ヴォイスヒーリングヨガのクラスは多人数で皆大きな声を出していたから、シンギングボウルの音ももっとガンガン大きかった)

仏様のおりんとかお寺の鐘とか、お坊さんがお経を読む時の鐘、
まさに声明やゴスペルの効果と同じだろう。


うっかりそれにやられてしまったわけで・・
心地良く真人間になれるなら、良しとします。





カラスウリの花

カラスウリの花。この花が開花するとびっくりしますよ、
といたずらっぽくお土産にくれる感覚って可愛いなあ、と思う。



声を出すということ

「音大に入って感動したことは、合唱のハーモニーが
 今まで経験したことがない程に神であったことだ」
という逸話を、何人かに聞いた。
「ただのハッピー・バースデーがハモっていて感激した」というのもある。


朝顔



私が参加している素人合唱団ではそういう経験はできない。
むしろ他人の音の外れ方が気になってしまう。
本番では自分の力を出し切るだけで、
「神のような合唱」にひたることはない。


オーケストラでも長唄でも、
聞いて感動するものは、中で演奏していても魂が震えるのであろう。


鉄線



素人がそういう経験ができるとしたら、
没我の状態でで声を出すなり、音を出すなりできる状況だろうか。


そんな疑似体験だったのが、ヨガの特別クラス「ヴォイスヒーリングヨガ」だったのかも。

ヨガは健康の為にやっているけれど、あまりスピリチュアル系や瞑想系のクラスは、
変に影響されるのが嫌でとらないようにしている。
けれど、日頃声をだすことばかりしているのだから、
もっと自由に声を出せるようになれば、と思って参加した。

多人数で90分、全身から汗も涙も鼻水も流れる程自由に声をだしてみると、
ああ、これは声明とか、ゴスペルとか、そういうたぐいのものなんだと納得した。


多人数だからこそできる音のうねりや呼吸の間や体温や波動、
それらを自分が出すと同時に全身で浴びている。
それらが肉体に影響を及ぼすのは当たり前だな、
と思った。


意味のないただの声が持つ自由さ、
音程や音階がないからこそ自由に発することができ、
ふんだんに浴びることができたのかもしれない。


蓮



満ちあふれて降りそそぐ声の中にいると、

 どんな時も自分のカラダだけは自分に寄り添っていてくれる。

 口から出る言葉は自分に返ってくる、悪い言葉も自分に返って自分を傷つける、
 だから口から出す言葉には気をつけよう。

そう言うインストラクターの言葉が、ああ、そうだな、と素直に聞けた。





絶版

十年程前、妹と親の家を片付けた時、
そのほとんどのものが、全く必要のないガラクタであり、
それらを処分する時間と労力とお金が半端なくかかる、という事実に
愕然とするというよりは、むしろ、猛烈に腹がたった。

私は親の家まで新幹線で通い、
地元の妹はゴミの日を狙って出す大量のごみをとがめられ、
車で直接焼却場に運び込むことを何回もして、
なんとか終決したけれど、
もう、家の片付けなど、二度としたくはない。

自分はそうはならないように、と思ったはずなのに、
どうやら、我が家も息子たちにとってはいらないものの宝庫で、
申し訳ない。早く、なんとかしたい。


とは思いつつ、古い義太夫の床本(台詞と譜面が一体となったもの)を
買い込んだりして、困ったものだ。

義太夫床本2
(心中天網島 時雨炬燵)
義太夫床本5
(大きさはそろっていませんが、上の本の最後の見開きです。
 黒い墨書きが詞、朱色の字は朱と言って、三味線の手。)

こういう床本はもう印刷販売されていないので、
太夫さんだった人の遺族が売りに出したり、義太夫協会が販売会をしたりしている。
文楽の人は師匠からこういう床本を借りて、真似て手描きをして使う。
私たちは自分が読める字を手描きする。

こういうものをこんな素人にバンバン売ってしまっていいのだろうか。
こうやって貴重な資料がどんどん散逸していくのに。



長唄の譜に青柳譜というものがある。

青柳譜  青柳譜2

(これも大きさが揃っていませんが、左が表紙、右が出だし部分)

これが現在、版元で印刷を停止してしまい、
印刷済みのものを順次販売して、売り切れ次第終了なのだそうだ。
すでにこの、「蜘蛛拍子舞」という譜面は絶版である。

えええええ!である。
私でさえびっくりだから、本職やら、これから本職を目指す若者やら、
芸大受験生やらは本当に困るだろうに。

私が親の家を片付けた時のゴミのように、
必要のない人や興味のない人には全くどうでもいいゴミなのだけれど、
でも、確実にこうして文化が滅びていっているのに・・・。


50年とは言わない、10年後、日本はどうなっているのだろう?

私のカケラ

大学生の時、デザイン学校の夜学にダブルスクールで通った。
そのデザイン学校の夜間コース開設第一期生だったので、
学校側も、どんな人間を集めたらいいのかわからなかったと見えて、
結果、高校の新卒生から、私のようなダブルスクール組や、
すでにデザイナーとして活躍している人、カメラマン、工芸家、絵描き、
役者、ただのアルバイター、等々の雑多な人間が集まって、
毎日夜の渋谷で飲んでばかりいたけれど、それなりに面白い日々だった。


その頃の飲み仲間が久しぶりに渋谷で集まるというので、用事の後合流した。
飲み会は4時から始まったのだ。
今や沼津のエスニック料理屋のオーナーシェフにおさまっているおじさんが、
乗車する渋谷発のバスの時間に間に合うように、そんな時間開始になったそうで、
笑った。


きゃあ、久しぶりー!
白髪になったり、シワがふえたりしても、もともと仕事をもっていたおじさんたちは、
あまり変わらない。
私は、卒業以来何十年も会わなかった一人の女性の顔を見るなり、
「あーーーーー、ゴミ袋に立体を入れて来たヒトーーーーー!」
と思わず叫んでしまった。


そうそう、昼間会社勤めをしていた彼女は、
立体を作るという課題の作品を満員電車でつぶされたくないからと、
ごみ袋に空気を入れて大きくふくらませて学校に持って来たのだ。
電車の中で「それは何ですか?」と聞かれて、「立体!」と答えたそうで、
私はそれを強烈に記憶していた。

彼女は才能も確かだったけれど、満員電車に毅然として大きなゴミ袋を持ち込む、
その気丈さに関心したのだった。


ところが、当の彼女はそんなこと覚えていないという。


優等生の彼女に比べて、デザインの授業自体はいい加減に受けていた私が
みんなに残した強烈な印象は、
学園祭でファッション科の子たちが主催したファッションショーに出て、
飲み過ぎていて、踊り過ぎてコケタことらしい。


やだー、
ヒトの記憶の中には、自分が思いもよらない自分のカケラが刷り込まれているんだ、
色々なヒトの記憶の中の色々な私のカケラを書き集めたら、
プリズムのように、キラキラと、いろいろな私が見え隠れするんだろう、


と、そう思ったら、不思議な心持ちになった。




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